(イマ)()たされぬ(トミ)(オト) 



ぐっ、と。
夜散が、咲夜の首にかた指に力を込めた。
その手は小さく震えていたが、それでも夜散は咲夜の呼吸を止めようとする手を止めない。
それは震えていて、とても人を殺せるような手つきではなかったが、夜散はその手を止めなかったし、咲夜もまったく抵抗などしなかった。
たとえ殺される程の力ではなかったとしても、苦しいことには変わりないはずなのに。
ゆるりと、咲夜の体勢が崩れる。
まずは膝が折れ、そして背中から。
やがて、完全に床に横たわった咲夜の体は、完全に動かなくなった。
俯きながらも震えていた夜散は、ようやく咲夜の上から退くと、ふらふらとした足取りで崩れ落ちる。


『なあ、さくや。ぼくだって、やればできるだろ?』


そう呟いた夜散は、泣いていたのかもしれない。
だが、自分のやるべきことを遣り遂げた夜散は、すぐに次の行動に移った。
咲夜の顔に触れ、まだ暖かい肌と、その温もりが残った包帯に触れる。
そして、むしるように包帯を奪うと、迷わず自分の首にそれを巻きつけた。
何重にも何重にも何重にも。
そしてわずかに残った隙間を、最後にドアのノブにかけて。
一度だけ、眼が合ったような気がした。
だけれどそれは、ただの勘違いだったのかも知れない。
すぐに夜散は、首をかくりとおとして、そしてそれが最後だった。
水城は、そこでモニターを止めた。
いつだって、あの子供たちの最後は、直視できない。
だが、水城はしばらく停止したモニターを食い入るように見つめてから、もう一度再生ボタンを押した。
必要だと、感じたから。
それは強制も義務も権利も及ばないものであったけれど。
再生された小さな箱の中では、もう一度悲しい最後が繰り返されようとしていた。
床に横たわった、両目を亡くした少年が、瞼を開く。
モニターはその中身を捕らえることなど出来なかったが、そこには何か溢れるものが満たされていたのかもしれない。
しばらく横たわったままの咲夜が、何を見ていたのかは分らない。
だが、水城にはモニター越しにこちらを見られているような気がしていた。
やがて咲夜はゆるりと体を起こすと、おぼつかない足取りで誰かを探し、そして夜散に辿り着くと、まるで彼が何をしたのか分っているかのような手つきで息絶えた体から包帯をはずし、つい先刻、自分がそうされたように、夜散の体を床に横たえた。
そして咲夜は、夜散がそうしたように、同じ行為を繰り返す。
包帯を首に巻き、それをドアのノブにかけ、膝を抱えて座り込み、見えない眼で天井を仰いで。


『――咲夜。泣いているのか?』


だけど、首の角度を落とす前に、咲夜は静かに呟く。
かろうじて、モニターはその声を拾ったが、しかし話しかけた相手の姿は、映し出されなかった。
力尽きたように壁にもたれた体は、無力を確かめるようにくしゃりと髪をつかむ。


『お前は、それでいいのか?』


自問自答なのだろうか。
ぽつり、ぽつりと重ねられる言葉は、聞こえたり聞こえなかったりと、酷く頼りない。
「それの何が悪い。」と。
苛立ったように呟くこともあれば、ともすれば掻き毟ろうとする髪を放し、両手を見つめて開いたり閉じたり。
一貫性のない行動には、だけどどこか一貫して意味を伴っているようにも見えて。


『お前の命は、俺のじゃない。』


泣きそうな、叫ぶような声で拾われた言葉は、あるはずのない眼球に夜散と朝咲を映していたのかもしれない。
一瞬だけ高ぶった感情を、なだめるように大きく息を吐き出して、咲夜は幾分落ち着いたような声で、否、無理やり感情を押さえ込んだような声で、続ける。


『なら、咲夜。お前は俺が本当に生きていると思うのか?』


自分自身に手向けられた言葉に、咲夜は涙を流して微笑む。
空洞になった底から零れ落ちる液体の色に、水城はまた眼をそらした。
直視できる光景ではなかったのだ。
生きることに、ごく当然のように絶望したその姿は、もう聞く相手もいないままに静かに語り続ける。
『意味』と、『価値』について。
『無意味』と、『存在意義』について。
しかし咲夜は、それを否定する。


『そんな日は、来ないよ。絶対に。』


否定されたことを、否定するかのように、酷く疲れたように。
白い部屋の中を、モニターは克明に、そして忠実に現実を記録していた。
だが、このときだけ、無風の室内を風が薙ぎったようにノイズが走った。


『でも だから それなら いっそ 、          』


声は、決して小さくは無かったはずだった。
けれど、何度聞いても、そこだけは音声を拾うことが出来なかった。
画面がぶれて、壁に寄りかかった盲目の少年を、切る。
だから、きっと、そのとき初めて、僕らは『本物』になれるんだ。
――『無意味を意味する存在』、だから。


『其処に心が無い事実は、真実じゃないからね。ただ其処に在るだけの事実なら、僕は誰にも存在されなくていいんだ。』


そうあるべきなんだよ、と。
咲夜は少しだけ笑った。
不自然なほどに、楽しそうに。
そしてひとしきり笑って、ぱたりとスイッチが切れたように沈黙すると、その後はただ静かに天井を仰ぎ、そして床に落とした。
何も無い空洞を塞ぐように瞼を伏せて、そして、夜散の温もりが消えたそこにゆるゆると巻いた包帯に触れる。
やめてくれ、と。
水城はモニターの画面に両手をついた。
がちゃがちゃと、画面越しに乱雑に白い部屋の鍵を開ける音が響いていた。
そして、その騒がしい金属音に混ざって、咲夜が酷く穏やかな声で呟く。


『だから、僕という存在があった事実を、他の誰もが忘れてしまっても、君という真実の存在は、消えないで欲しいと思っているよ。』


直後。
緩やかにドアに背を預けていた咲夜の体が、くっと後ろに引っ張られた。
それが、最後だった。
水城は、もう一度モニターを止める。
今度は、画面がぶつりと音を立てるほどに。
真っ黒になった画面は、同じように水城を絶望で真っ黒に染め上げる。
知らなかった、と。
そういう理由にはならないだろう。
ドアノブと首を固定した包帯は、外側からドアを引いた瞬間にあっけなくその役目を果たしたのだ。
水城は、最後の引き金を引かされたのだ。
ぱたり、と。
水城は事件の関係ファイルを閉じた。
直視できなかったモニターと同様、水城はその後、幾度と無くこのファイルを開いたり閉じたりしていた。
 いっそ燃やしてしまおうかとも思ったこともあるが、それは立場としてそれは許されないことであったし、それが許される立場であったとしても、水城にはそれが出来なかっただろう。
無力に苛まれるのは、初めてではなかったから。
以前であった彼女もまた、『模範的な精神病患者』とは異なる病態を示し、最初から最後までその『真実』を理解されないまま、逝ってしまった。
 それがネックとなり、水城は子供を相手とした治療では、巻き込まれながらも関わってきたのだが、結局『彼女』と同じような境涯に置かれた『子供たち』は、彼の願望をあざ笑うかのように、逝ってしまった。
 水城を縛る鎖はふくらみ、最早償うどころの話ではないのかも知れない。
水城は追い込まれていたが、だが、それでも忘れることも切り離すことも出来なかった。
 朔夜が、「どうか忘れないでほしい」と言ったから。
水城は目を伏せる。
あの兄弟妹達は、


「母さん!」


 不意に、窓の外から少年の声が響いてきた。
惹かれるようにして、水城はその下を覗き込む。
 過去に一人だけ、乾いた血の色の着物を纏った女が此処に軽々と腰掛けていたが、今更ながらに水城は苦笑を覚える。
 この高さでろくな手摺も無いのによく座る気になったものだ。
ほんの僅かにでもバランスが崩れたら、ぺしゃんこになっていただろう。
 最も、ぺしゃんこになったとしても、彼女の血は同じ色の着物に吸われて、変わらぬ姿でその身を晒したかも知れないけれど。
 ちなみに、あれほど熱心に水城を壊しに訪れていた無道魅は、あの日以来ぱたりとその姿を見せなくなった。


「母さん!」


 同じ声がもう一度響いて、水城は視線をめぐらせる。
ようやく見つけた、豆粒のような姿は、危なげな足取りで手を左右に伸ばしながら、ゆるゆると歩を進めている。
 見えないのだから、無理も無いだろう。
懸命に歩こうとする姿に、周囲にいた入院患者やその見舞いに来たらしい人々が、道をあけてやっていた。
 たどたどしく、けれどしっかりとしたその足取りは、以前には見られなかった、『模範的な失明患者』の行動だった。


「朔夜、こっち。」


 少年の声に応えて、車椅子の女性が、その名前を呼ぶ。
敏感に、その声だけで方向を見極めた少年は、迷わずに足を踏み出した。
 一歩、二歩、三歩。
 四歩めでよろけて転べば、面白そうに車椅子の女性が笑って。
少年は笑われたことを不満そうに、頬を膨らせる。
 何処にでもある、幸せな家族の風景だ。
それを、彼はのどから手が出るほど望んでいたはずだ。
 もう一人の彼自身と、彼の兄と妹も、望んでいたのだろうけれど。
しかし、そこにある『真実』はもう分らない。
 語るべき口も、声も、咽喉も。
もう失われてしまったから。
 そう、もう、水城が引き摺るべきことは、何も無いはずなのだ。
あの少年は、今はもう『模範的な家族像』の片鱗を、手にしようとしているのだから。


「朔夜、元気だったかい?」
「父さん?」


 しかし、不意に。
『模範的な家族像』を模した、『歪な家族像』が迫ってくる足音を、水城は聞いたような気がした。
 再び、声を追って窓の外を見下ろせば、その視界には車椅子の女性と盲目の少年に向かって歩み寄る男が捕らえられて。
 『真実』は、そこに関わった人間の数だけ存在するんだよ、と。
水城の聴覚は、あの時の無道魅の、あざ笑うような声を捕らえたような気がした。



<<  Return  | Menu |  Next  >>



2009/12/28


inserted by FC2 system