(ホウム)(オク)った(マヨ)(ミチ) 



ぐっ、と。
首にかけられた指に力が込められた。
包帯に閉ざされた視界は、その様子を視覚的に捉えることは出来なかったが、その分感覚的に物事を捉えるようになった咲夜は、自分の呼吸器官を狭めて行く指が震えていることに気付いていた。
誰も、殺したことなど無い、無垢な手は。
夜散の手は、確かに朔夜の咽喉を捉えていたけれど、何を持って『殺人』を完遂とするのか、分からなかったのかもしれない。
けれど夜散が、最後の自分の仕事なのだと決めたのなら、朔夜はそれをやり遂げさせてやりたかったのだ。
だから朔夜は、ただ静かに呼吸を止めた。


「なあ、さくや。ぼくだって、やればできるだろ?」


震える手が、震えたまま離れていって、隙間を埋めていた部分を冷たい空気が撫でる。
夜散の、嗚咽が聞こえたような気がした。
だけど、それはやはり気のせいだったのかもしれない。
よく分らない。
何しろ彼にはもう、見るための眼球が無いのだから。
夜散の震える手は、横たわった朔夜の頭部に巻かれた包帯を抜き取る。
そして、ゆるゆるとその紐を自分の首にかけた。
夜散が、嗚咽を漏らして泣いているのかどうか、確認する術など無いはずなのに、夜散が何をしようとしているのかは、手にとるようによく分った。
首に、包帯を巻いた夜散は。
それをドアノブにかける。
そして朝咲を見つめて微笑み、ドアに背を預けて、ずるずると滑り落ちるように床に座り込む。
視線をゆるりとずらして朔夜を捕らえると、何かに耐えかねたように眼を伏せ、天井を仰ぎ、そしてただかくりと視線を落とすように体重をかけながら首を床に落として。
そして、それが最後だった。
朔夜はそれを待ってから、床に仰向けに倒れたまま眼だけを開く。
無論、空洞になっているそれは、横たわった朝咲も、ドアに背を預けた夜散も捕らえなかったけれど。
しばらく横たわったまま天井を仰いでいた朔夜は、空洞をふさぐように瞼を閉じた。
押し出すものはもう何も無いのに、押し出されたそれが流れる感覚を覚えた。
その液体の色が、紅いのか透明なのかは分らない。
ただ、今は夜散の首からそれをはずすべきだということしか、分らない。
朔夜は、ゆるりと上体を起こすと、同じ速度で立ち上がり、おぼつかない足取りで、まだ暖かい体を探し、そして手探りで首から包帯を抜き取って横たえた。
失敗すれば、多分夜散は落胆しただろう。
だけど、残念ながら夜散はそれを綺麗にやってのけたのだ。
もう、息は無かった。
朔夜は考える。
これが、自分の生まれてきた意味だったのか。
この絶望的な世界から、三人を助け出すことが出来なかった自分だけが、いまだ存在することに一体何の意味があったのだろうと考える。
この世のあらゆるものが無造作に投げ込まれたこの世界に、どうして自分たちは同時に存在し無ければならなかったのか。
咲夜は朔夜がいなくても存在できるが、朔夜は咲夜がいなければ存在することは叶わない。
世界は酷く理不尽で不公平で、それなのにどうしてこんなにも美しいと思うのか。
朔夜にはその理由が、少しだけ分っていた。
それを、自分だけが知っていることに、酷く絶望していた。
その絶望に、咲夜が耐え切れないことも、朔夜は知っていた。
から。


「――咲夜。泣いているのか?」


朔夜は咲夜に問いかける。
顔に触れれば、咲夜が泣いているのだと分った。
何故なら、自分は決して泣かないことを知っていたから。


「嫌なこと総てが忘れ去られてしまえば、君の存在が確かなものになったかもしれないのにね。」


 咲夜は涙を流したまま、少しだけ笑ってつぶやく。
ついさっきまで、無反応だったくせに、急にそんなことを言うから、朔夜は無言でその声を辿った。
すぐ近くで居て、凄く遠いような声に、考えるより先に、朔夜は問いかけていた。


「お前は、それでいいのか?」
「君は、このままでいいの?」
「………」
「それならどうして、僕にそんなことを聞くの?」


もっと、自分のことを考えたって、よかったんだ、と。
咲夜はまた少しだけ、困ったように笑った。


「朔夜。僕にはね。厳然たる事実しかないんだよ。そして君には真実しかない。」
「それの何が悪い。」
「何も悪くなんて無いよ。ただ、酷く悲しいと思っただけ。だから僕らは、共に生きられない。」


咲夜は自分の手のひらを眺める。
自分の手は、『守る』には小さすぎて、細すぎて、無力だった。
ただ、泣き叫ぶ兄妹を救いたいと思っただけなのに、それさえもかなわなかった。
守ってくれたのは、朔夜の手だった。


「――だから、君が生きればいい。」
「お前の命は、俺のじゃない。」


『事実』と『真実』の定義に一致を望めない声は、もう総てを諦観していた。
それが面白くない朔夜の声は、自然とぶすくれてしまう。
しかし、言葉以上に雄弁に語る声に、咲夜は応えなかった。
それを、否定することも肯定することも出来なかったから。
朔夜は溜息をつく。
咲夜はいつも不可能なことばかり口にする。
本当に意味が分らない。
朔夜は、次第に腹の底がふつふつと沸くような気分になった。
咲夜と話すのは、酷く疲れる。


「ねえ、朔夜。君は、僕が本当に生きていると思う?」
「なら、咲夜。お前は俺が本当に生きていると思うのか?」


今、此処に存在していることは確かなのに。
此処が何処かは分らない。
『此処』は『此処』に変わりなくて、他の何処でもない場所だけれど、そこで生きているかどうかなんて、そんな曖昧で不確かなことには、全然実感など持てない。
実感など無いけど、確かに自分たちは『二人』で、『此処』に居て、『考えて』、『感じて』、『生きている』はずなのだ。
そして、同じことを繰り返す。


「ねえ、僕は無意味な存在なんだと思わないかい?」


また一筋、咲夜は涙を流して微笑む。
咲夜が泣く理由は分っても、笑う理由は朔夜には理解できない。
だけど、それは問題ではないのだろう。
咲夜は、自分の考えを整理するためにそれを声にしているだけで。
理解できないのは、朔夜が咲夜ではないからで。


「無意味、なんだろうな。だが、それなら『意味』には『価値』があるのか、俺には分らない。」


だから、咲夜が朔夜を理解する必要も無くて。
本当は、分ってるかもしれない。
朔夜は少しだけ、笑った。
咲夜はまた、少しだけ、泣いた。
『無意味』という言葉の『意味』も、その『存在意義』も、何もこの現実を変えてくれないということについては、『同じ』なのだ。
結局のところ、ただそこに居るだけで存在している人間など居ないのだ。
誰かがそうと捉えていてるから存在しているだけに過ぎない。
一人でも、その存在を不必要とするなら、その存在は無意味を意味するものとなる。
だから、咲夜にも、朔夜にも、その存在意義が無かったのだ。


「でも、全ての人間が僕を忘れてしまったら、そのときは、」
「そんな日は、来ないよ。絶対に。」


その先の言葉など、朔夜は求めていなかった。
難しいことはいらない。
ただ、『守る』ことだけを考えてきた朔夜には、咲夜が示した意味はあまり体に馴染まなかった。
存在を否定された存在など、認めたくなかった。


「でも だから それなら いっそ 、          」


ざあっと、風が流れたわけでもないのに、そこだけ声が途切れたような気がした。
本当は聞いておいておかなければいけなかったのかと、酷く不安になったけれど。


「だから、きっと、そのとき初めて、僕らは『本物』になれるんだ。」
「――『無意味を意味する』存在、か?」
「其処に心が無い事実は、真実じゃないからね。ただ其処に在るだけの事実なら、僕は誰にも存在されなくていいんだ。」


そうあるべきなんだよ、と。
咲夜が笑って言えば、朔夜も少しだけ笑って応える。
じゃあ、結局どういうことなんだよ、と。
馬鹿みたいに、笑いあった。
泣き叫んで、怒り狂って、それを受け止めている人間が居てくれれば、笑う必要は無かったはずなのに。
そういう柵の全部から、守りたかったはずなのだ。
でもそれは、結局出来なかったのだ。
だから失ってしまったし、奪わせてしまったし、諦めて、泣かせて、絶望させてしまった。
もう、まともに顔を『視る』ことなど出来なかった。
天井を仰いでいた視線を、床に落とす。
背中から、最後の時間が迫ってくる音が聞こえる。
それを、無言で迎えるように。
咲夜は何も無い空洞を塞ぐように瞼を伏せた。
そして、首をゆるゆると巻いた包帯に触れれば、乾いた布の感触は、暖かくて。


「だから、僕という存在があった事実を、他の誰もが忘れてしまっても、君という真実の存在は、消えないで欲しいと思っているよ。」


背筋がぞくぞくするような冷たい声で呟かれた、咲夜の酷く優しい言葉が、いったいどんな表情をして押し出されていたかなんて、朔夜にはもう知る術など無かったから。



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2009/12/17


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