(ユメ)(マボロシ)陽炎(カゲロウ)に 



『さくちゃん、ちるくん。お誕生日、おめでとう。』


 無道朝咲は緩やかに微笑んで夜散と咲夜の頬に唇を寄せる。
その言葉で、水城は初めて子供たちの誕生日を知った。
 夜散と朝咲は、今までその白い病室に関して不満を口にしたことは無かったが、それでも自由が無いこの病棟では、誕生日を祝うにしてもその程度しか出来ない。
 いつも穏やかで、地に足が着いていないかのような微笑を浮かべている朝咲も、この日だけはどこか哀しそうな笑みになっている。
 いつも、大事に大事に朝咲を腕に閉じ込める夜散もまた、苦しそうな表情で。
そして夜散と朝咲を訪ねて病室にやってきた咲夜もまた、何時にもまして口数が少なかった。


『朝咲……、朝咲、あさき』
『ちるくん』
『朝咲、ごめんね。』


 背後から、朝咲を抱きしめる夜散は、その柔らかな髪に顔をうずめて呟く。
泣いているような、泣いていないような。
 だけど、顔を隠す様に。
 朝咲は自分の髪と混ざった夜散の髪を、くしゃりと掴んで。
本当は撫でたかったのかも知れない。
 だけど、拙い手は、上手くできなかったから。
朝咲は夜散の頭に寄り添うようにして、同じように目蓋を伏せる。


『ちるくん、謝らなくて、いいんだよ。いけないのは、朝咲なの。散朝を取り戻せなかった、朝咲が悪いの。』


 そして短い間世界を遮断した朝咲は、再び目をひらくと、今度は小さな両手を広げたり閉じたりしながら自分の手の平を眺める。
 掴もうとして、掴み損ねたものを、また掬い上げる術を探すかのように。


『朝咲は、悪くないよ。僕らが、弱かっただけだから。』


 そして咲夜が、朝咲の両手を取って自分の手で包み込む。
労わるような、慈しむような。
 もう無い目に映しているのは、どんな感情の色なのか、モニター越しでは水城には分らないし、たとえ真正面から咲夜と対峙していても、分らなかっただろう。
 夜散は後ろから、そして咲夜は前から。
それぞれ朝咲の胎に触れて目を伏せる。
 その傷跡を痛むように。
その傷痕を、傷むように。


『朝咲、僕らは、一つも上手くいかないね。』
『本当なら、今日は散朝が帰ってくるはずだったのにね。』
『――いいの。もういいの。』


 散朝が還って来ても、もうパパとママは喜んでくれないから、と。
か細く呟いた朝咲の眼から、涙が一筋零れ落ちる。
 それを、咲夜が舐め取って。
同じように肩を震わせた夜散の咽喉からもまた、薄い嗚咽が零れる。
 失ったものが、多いとは思わなかった。
失って惜しむほど多くのものを、生まれてから与えられた記憶は無かったから。
 それでも確かに哀しかったのだ。
彼らが避けられなかった『事実』が。
幻想のように求めたものが、総て幻想のままで終わってしまったことが。
 それでも、夜散も咲夜も朝咲も、自分たちが不幸であるとは思わなかった。
恵まれているかそうでないか、愛されていたかそうでなかったか、幸せだったか不幸せだったか。
手の届く範囲で完結していた世界では、比べるための基準さえ知る術は無かったから。
 ただ、自分自身で感じるものでしか、測れなかったのだ。


『――もう、疲れちゃったね。』


 呟いた朝咲の身体から、力が抜ける。
嫌なこと総てに目を瞑って、眠ってやり過ごしてきた朝咲には、もうその感覚が条件反射のように身についている。


『終わりに、しようか?』


 だから咲夜は、そう問いかける。
過去に無力を嘆いた少年は、そのための手段を手に入れたから。


『何を、終わらせるつもり?』


 嫌なこと総てを忘れることで、やり過ごしてきた夜散は、面白そうに笑って咲夜と朝咲のやり取りに口を挟んだ。


『分ってるだろ?夜散。』
『朔夜…そうだね。』


 要点など、ろくに言葉にしないこの兄弟妹たちは、それだけで総ての意志の疎通が完成されたから。
 どこか抵抗するように、眼を閉じた朝咲を抱き起こした。
その、薄くて華奢な身体を、咲夜は一度だけ抱きしめて。


『朝咲、愛しているよ。』
『私も、大好きよ。咲夜…』


 そして、咲夜はゆるりと朝咲の呼吸を塞ぐ。
言葉通りの愛情表現と捉えるには、長すぎる口付け。
 そして咲夜が離れたその後には、呼吸の暇をも与えず今度は夜散が。
朝咲は抵抗をしなかった。
 ほんの僅かに、その苦しさを示すように、自分を抱きしめる二人の兄に伸ばした手を反射動作で握ったくらいで。


『朝咲、僕も、愛してる。』
『夜散、も、大好き、だよ』
『朝咲、さよなら。』
『やち…る…っ、さく…さくや……』


 長い長いキスは。
繰り返そうとする朝咲の最後の一呼吸まで飲み込んで。
 交互に呼吸の術を奪う咲夜と夜散に、だけど朝咲は最後の最後だけ、抵抗を示して、二度目の口付けとなる咲夜の顔を僅かに離した。
 そして、白くなった顔に薄い微笑を貼り付けて。


『朔夜、も、大好き、だ…よ……』


 その、最後の一言を聞いたときの咲夜の表情も。
モニターが記録することはなった。
 ただ、最後に朝咲の息の根を止めたあとの咲夜は、片手でその顔を覆っていて。
朝咲の最後は、穏やかな表情だった。
 泣くことも、叫ぶこともせず、ただ、命の行く末を委ねたのだ。
まだ生前の温もりを残した頬を、夜散が愛しむように触れる。


『朔夜。』
『――何?』
『お前、いつもこんな役ばっかり。』


 夜散は、その眼から涙を零したまま笑う。
自分が泣いていることに、気付いていないのだろう。
 咲夜は、同じように少しだけ笑うと、失った眼を覆いつくす包帯をゆるゆると解いた。
思ったよりも長いそれが床に渦を巻くように零れて、空洞が二つ、現れる。
 包帯を解いても見えるはずが無い眼は、しかし包帯をしているとき同様に、しっかと見えているようだった。
 その顔に触れて、夜散はまた、微笑む。


『だからさ、最後は僕がやるよ。』
『夜散。無理はしなくて良い。』
『出来る。だって僕は、お前のお兄ちゃんなんだから。』


 夜散は、まったく同じ造詣をした、もう一人の自分の首に、ゆるりと指を絡める。
そして、力を込めたことは、柔らかな肉が首に沈んで行く様で、見て取れた。
 だから、咲夜は少し笑って。


『違う、俺は。』
『お前も。』


 咲夜が否定しようとした言葉を、夜散が否定する。


『お前も、僕の弟だから。朔夜。』


 だから、僕が守るよ、と。
泣きながら、笑って呟いた夜散の言葉に、失って空洞となったはずの咲夜の眼窩から一筋の感情が零れ落ちた。
そして夜散は、ゆるりと横たわった相手に馬乗りになって、その首に優しく手をかける。
 そこまで見て、水城は耐え切れなくなってモニターの電源を強制終了した。
あの日、無道兄弟妹の最後を残した記録は、水城の中に既視感にも似た感情を残した。
 また、救えなかったのだと思う。
 しかし、今度はそこから逃げ出すことは難しかっただろう。


「君は、朝咲ちゃんが誰と性交渉を持っていたか、知っているかい?」


 朝咲に面接を行ったあの日、水城は確かに朝咲自身にはそれを問いかけることは出来なかった。
 しかし、誰にもその問いを掛けなかったわけではなかったのだ。
朝咲を病室に送り届け、入れ違いに退室する咲夜を送る途中、その話を出したのだ。
 問われた咲夜は、怒り出してもおかしくは無かっただろう。
普段から、咲夜も夜散もあれだけ朝咲を過保護に扱っているのだから。
 現に、夜散は面接のときに『朝咲に瑕疵(キズ)がつく』から『秘密』なのだと言っていた。
そこからある程度の推測は持っていたし、それが事実であるならば、それこそ咲夜の怒りを誘うに充分な理由であったから。
 しかし、返された言葉は、水城の憶測とは違ったものだったのだ。


「朝咲の中には、誰の体液も残っていなかったんでしょう?」


 予想に反して酷く冷静な声が、冷静な言葉で返してくる。
言葉で、応えるのが躊躇われて、水城はただ首を縦に振ることでそれに返した。
 そして、続いた咲夜の言葉は。


「なら、それは僕らじゃない。」


 その、酷く理解しがたい応えに、水城は。
ただ淡々と応えた。
 感情を、切り離してしまわなければ、自分自身が上手く成立しなくなってしまうから。


「――君たちも、なのか…?」


 どうか否定してくれ、と。
その願望が込められた言葉は、しかし汲まれることは決してなかった。
 そこまで水城が我を失う理由が、咲夜には理解できなかったのだろう。
咲夜自身は、ただ水城の反応に首を傾げて続けただけだった。


「僕らには、散朝が必要だった。だから還って来てもらおうと思っただけだよ。


 だから、上手くいくように何度も練習したのに、あの日に限って、邪魔が入っちゃってね、と。
 咲夜は指折り数える。
右手の親指から始まり小指まで。
左手でも同じことを繰り返してから、今度は握り込んだ両手を逆の順番で開いて。
そして、『十月十日』と、小さく口の端で笑って。
「あの日上手くいけば、今頃は散朝が還ってきたのにな。」と。
 そのときの、無道咲夜の顔を、水城は生涯忘れることは出来ないだろう。
 穏やかで、優しいその心は、多分総てを許していたから。
どうにもならないと分っていたから、嘆く前に諦めて許したのだ。
 それは、無道夜散と無道朝咲の前でだけ見せる、咲夜の笑みで。
反射的に、水城は最後の問いを口にしていた。


「君は、誰だい?」
「僕は、無道咲夜だよ。」



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2009/11/23


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