名前を呼ばれて、咲夜は穏やかに振り返る。
それに満足したように、夜散は朝咲の額に唇を寄せる。
それを、咲夜は小さな溜息と共に面白そうに自分を見つめる夜散を見やってから、その腕の中の妹に腕を伸ばした。
『さくちゃん』
『何?朝咲?』
『目、痛い?』
『もう、痛くないよ。』
未だ包帯をしたままの咲夜と視線を合わせれば、咲夜はごく自然にその視線を返す。
包帯越しの眼窩に、何が映っているのか、もちろんそれはモニター越しの水城には分らない。
それは、咲夜自身以外には決して想像できないことであるはずのことであったが、しかし朝咲と夜散には違ったのかもしれない。
朝咲は夜散の腕の中から抜け出すと、まるで見えているかのような正確さをもって自分を見つめてくる咲夜のほうに身を乗り出す。
それを追いかけるように、夜散が朝咲に覆いかぶさるようにして、やはり咲夜のほうに身を乗り出して。
伸し掛かってくる二人分の重さに、咲夜は早々にそれを細腕で受け止めることを諦めた。
『朝咲、夜散。重いんだけど。』
包帯に隠れていない顔の下半分で、咲夜は困ったように笑う。
その声に、一瞬とまった朝咲は、首を回して自分の背中にのしかかっている夜散に言う。
『ちるくん、重いって。』
『いやだよ。僕だけ仲間はずれ?そんなのずるい。』
『僕も朝咲も、そういうのじゃないよ。』
『そうなの?僕は、そういうのかと思ったんだけどな。』
言いながら、夜散は朝咲にのしかかったまま、腕を絡めて柔らかな肉に触れる。
華奢な朝咲の背骨に沿って、額を押し付けるように上れば、朝咲はくすぐったそうに笑って、夜散の手を離そうとしたが、結局それも無駄に終わった。
甘えるように朝咲を抱きしめる夜散に、朝咲自身は引き離すことにそれほど重きを置いていなかったらしい。
朝咲が再び咲夜のほうに身を伸ばせば、身体を支えることを諦めた咲夜は自分とは別の二人分の身体を自身の身体に重ねるようにして迎えた。
『さくちゃん』
『朝咲、悪戯は駄目だよ。』
『さくちゃん、痛い?』
『僕は、痛くない。』
『本当に?』
朝咲は、咲夜がいたむのを待っているのかも知れない。
しかし、痛みを与えたいわけではなかったから。
朝咲は折れそうなくらいに骨と皮の白い指を、咲夜の包帯に這わせる。
失ったはずの場所は、その感触を朝咲の指先に伝える前に包帯の弾力が押し返した。
更にその下、包帯に沿った部分の指を突こうとした朝咲の手を、しかし咲夜は寸でのところで取った。
『朝咲、そこにはもう何も無い。』
咲夜は静かに微笑む。
朝咲の手を取ったのと、反対の手をで妹の顔を寄せながら。
『何も無いんだ。』
そっと唇を寄せて。
朝咲がゆるりと目蓋と閉じる様を、ただ静かに見つめて。
『僕には何も無いんだ。』
ただ、求めるように、拒むように。
囁くように、嘆くように。
『咲夜には、僕と朝咲が居るよ。』
『夜散』
そうして夜散もまた、朝咲の身体に絡めていた腕の一本を咲夜に伸ばして、その顔に触れる。
朝咲の小さな身体を、押し潰すようにして咲夜との距離を縮めて。
その耳元でもう一度。
『朔夜には、僕と朝咲が居るよ。』
『夜散』と『朝咲』の『言葉』と『行動』は。
ちぐはぐで曖昧で矛盾を孕んだ印象を受ける。
モニター越しで、どうにも直視に耐える耽美的な世界を見つめていた水城は、不意に思い立つと部屋を出て、モニター越しではない白い倒錯の世界に向かった。
あの日、無道魅が、試すように水城を見ていた日。
魅の視線に含まれていたものが『期待』だというのなら、水城はおそらく半分しか応えられなかったのだ。
魅が水城に対して何を『試して』いたか、それも分らないまま、ほんの僅かに片鱗だけを掴んだのだ。
がちゃりと、音を立てて一つずつ白い狂気を閉じ込める鍵を解き、世界を開きそこに自由を重ねる。
「――咲夜くん、ちょっといいかな?」
顔だけを、覗き込ませれば。
先ほどモニター越しに見ていた世界が、そこにそのまま存在していた。
咲夜を一番下に、朝咲を挟んで夜散がそこに転がっていた。
天井付近に設置されたカメラからでは分らなかったが、夜散は咲夜と朝咲が潰れないようにしっかりと自分の体重を支えていた。
逆に朝咲は、完全に咲夜に体重を預けるようにしてへちょりと身を任せている。
その光景に、水城がふっと表情を緩めれば、夜散が面白くなさそうに水城を睨み上げた。
「なんだよ。」
「ちょっと、咲夜くんに聞きたいことがあってね。」
水城は基本的に、子供たちに上から物事で押し付けるようなことが出来る立場には無い。
だから、許可を求めるように視線を向ければ、咲夜は朝咲を身体の上に乗せたまま応えた。
「俺は、聞きたいことなんて無い。」
それは、拒否の言葉ではあったが、咲夜は朝咲を落とさないように身体を起こしていた。
一番上にいた夜散は不満そうに唸ったが、しかし彼は咲夜の意思を頭から反するようなことは言わなかった。
「夜散」
ぐんにゃりと、全身の力が抜け落ちたかのように、再び眠りに落ちそうになっている朝咲を夜散に任せ、咲夜はゆるりと立ち上がる。
やはりその動作に、視界の損失による迷いは見られなくて。
咲夜は迷いの無い足取りで水城のほうへ歩んでくる。
「少しだけ、借りるよ。」
去り際にそれだけ言って、水城は咲夜と共に部屋を後にした。
そして、今度は白い狂気に満ちた白い世界を、またも厳重に封印し咲夜に振り返った。
「僕が先と、君が先と、どちらのほうがいいかな?」
「別に。どちらでも構わない。何処へ行くんだ?」
「――僕の、オフィスにしようか。」
短い会話を交わせば、咲夜は一人くるりと踵を返して水城のオフィスへと向かって歩き出した。
目が、見えないはずの咲夜は。
目が、無いはずの昨夜は、危なげ無くその足を勧める。
水城は、そのまま無言で咲夜の後についていったが、咲夜はそのまま水城のオフィスに辿り着くまで、微塵もその揺らぎを見せなかった。
その、不自然なまでに自然な行動に、水城はもう驚くことも無かった。
「それで、何か聞きたいんだ?」
ごく、僅かな音を立てて咲夜は来客用のソファに腰掛けた。
今までの、回りくどいやり方などもう何の意味も成さない。
自分が行っている行為が、果たして無道咲夜を初めとする兄妹たちのためのカウンセリングとなるのか、それともそれを通り越した越権行為に当たるのか判断がつかなかったが、水城は咲夜の足取りと同様に、迷わなかった。
「どうして『朝咲』が『夜散』で、『夜散』が『朝咲』なんだ?」
その、食い違いの一つを、今までは誰もが問うことをしなかった。
事件に、関係が無かったかといえば、確かにそれは間接的な関係以上のものは確かに無いのだろうけれど。
問われた咲夜は、少し考えてから応えた。
しかしそれは、問いに対して答えることの抵抗ではなく、単純に記憶を拾い上げるための時間だったのだろう。
「『夜散』って名前が、そもそも苦しめられるためにつけられた名前だからだ。」
「苦しめられるための名前?」
「そうさ。『夜に散る』なんて、なんて酷い名前。」
朝咲の言葉を真似るように、咲夜は歌うような口調で答える。
その、相手の反応などまるで無関心で続けられるそれは、あるいは無道兄弟妹の特徴であるのかも知れない。
水城の返事など最初から求めていない咲夜は、そのまま見えない目で水城を見据えた。
「っ!」
咲夜の声は笑っているが、包帯の下から伸びる視線は、まったく笑っていない。
水城は息を呑んだが、しかし怯みはしなかった。
もう、夜散と咲夜と朝咲に対して行われてきた行為に、驚くべき要素は無いはずなのだ。
今までだって、その度に驚かされてきたのだから。
「それだけでも酷いのに、無道朱音は毎日朝咲を責めた。『散朝が死んだのは夜散のせいだ』
って。だから、取り替えた。朔がそうすればいいっていって。『朝咲』が『夜散』になった。そして『夜散』が『朝咲』になった。それだけだ。」
無道朱音が物凄く怒ったのが、楽しかったな、と。
咲夜はころころと笑った。
「無道朔が、名前を…?」
もう驚くことなどないと思っていた水城は、しかし咽喉の奥に呼吸を詰まらせるような息苦しさを覚えて眉を潜めた。
しかし、それだけに留められたのは幸いだったのかも知れない。
それを見て、咲夜は今度はゆるりと笑ったのである。
「――別に、散朝が死んだのは『夜散』のせいじゃない。」
朝に散ってしまった子供のために、『散朝』と名付けられた。
お前が死ねばよかったのに、という意志を込めて生き残った同じ女児には『夜散』と名付けられた。
そしていわれの無い責め苦を受けることになったのだ。
それを、苦々しく語ってから、やはり咲夜はゆるりと微笑む。
咲夜に言わせれば、朝咲が死んだのは、四つ子だと分っていたのに帝王切開にしなかった医師の責任であり、そしてそれを疑問に思わなかった無道朱音自身のせいなのだ。
同時に生まれた子供たちに、その罪は無い。
そしてそれは、あらゆる意味で逸脱したものとは無縁に人生を送ってきた水城の『常識』とも、綺麗に合致していた。
ようやく、どこか安堵したように水城が表情を緩める。
そして、気が済んだかのように口を閉ざした。
一つ溜息をつき、そして訪れる沈黙さえもを、総て飲み込める程に大きく、ゆっくりと息を吸いながら。
「――もうひとつ聞きたいんだ。」
「何?」
水城は、同じようにソファに身体を沈めて何か救いを求めるように天井に視線を向けた。
あるいは、見えないはずの咲夜の視線から、逃げるように。
短く応えた咲夜もまた、見えない視線を明後日の方向に彷徨わせながら応えて。
「君は、誰だい?」
「俺は、無道朔夜だよ。」