無道咲夜の面接記録と無道夜散の面接記録を見比べた水城は、無表情のまま一つ溜息をついた。
今まで、無道夜散に対して行ってきた事情聴取は、酷く簡易なものであった、
何故ならそれは、何度聞いても彼が無道藍音と無道朱音という人物を理解できなかったからだ。
父親と母親という概念が、まるで根こそぎ抜け落ちてしまっているかのように、調査官は質問に対して噛み合わない応えを返す夜散に眉をしかめただけだった。
そして事実、彼は父親と母親としての無道藍音と朱音に関する、過去14年の記憶が出てこなかったのである。
無道夜散にとって『母親』は無道朔であり、それ以外の家族は咲夜と朝咲しか存在しないのだ。
そのため、水城は断定は難しいと注釈を添えながらも、無道夜散に解離性健忘の疑いを持っていたのだが、実際には夜散はとても鮮明にあの夜のことを『覚えて』いた。
捜査をする側からは文句が出そうなものであるが、これについては水城は一つの仮説を立てている。
夜散の解離性健忘が、『自身の心に耐え難い出来事が起きた場合に健忘が起こる』とされているとしたら、彼が虐待をしていた両親についての記憶が無いのは理にかなっている。
そして、『あの夜』その『耐え難い出来事』を長きに渡って繰り返したいた『両親からの解放』と考えるならば、それは夜散にとってはむしろ喜ばしい出来事なのかもしれない。
だから、鮮明に覚えていた。
とはいえ、それが実際にはどうであるか確認する術は無い。
人間の心が起こす作用というものは、それこそ標準化された診断で測るには限界があるのだから。
それよりも重要なのは、無道夜散の証言が無道咲夜の証言と食い違っていることだった。
無道咲夜の証言をベースに置くとしたら、あの夜は無道藍音に夜散が殴られてピアスごと耳を引きちぎられた。
無道朱音が藍音を刺し、そして朝咲を二度刺した。
そのあと、止めようとした咲夜が朱音を刺し、その際の抵抗で左目を潰され、最後の逆上した夜散が藍音と朱音を滅多刺しにしたことになる。
しかし無道夜散の証言では、最初に無道朱音が朝咲を刺し、ついで止めようとした藍音を刺したことになっている。
そして夜散が藍音に殴られて耳が千切れたことは同様だが、咲夜が藍音を刺し、明確な証言ではなかったがその際に目を潰されたという状況と考えられる。
そして更に同様なのは、夜散が最後に藍音と朱音を滅多刺しにしたところだろうか。
「どちらが、近いんだろう。」
水城は頭を抱え込んだ。
口裏を合わせようとして、シナリオを間違えたという可能性ももちろんあるだろう。
その場合は虚偽の証言をした捜査妨害となり、逆送致された場合には判決に不利な情報となるに違いない。
しかしそれ以前の、無道夜散と無道咲夜の証言には、信憑性が欠けているのだ。
それは、虚偽とはまったく別の要因があり、彼らは『それ』こそが『真実』であると信じている。
だから、そのときの様子に不自然さは見えないし、おそらくこの夜散と咲夜の面接時の録画を他の精神分析官が見たとしても、水城と同じ反応を抱える羽目になるだろう。
ただのカウンセリングであれば、水城はこんな矛盾など大して気にはかけない。
しかし、最終的に一本の線にしなければならないであろう、このような場合には、どうすればいいのか見当もつかなかった。
それは、水城の仕事ではないのだが、それでも無関係と無関心で見過ごせないことであり、そして系統立てて報告することは、今の段階では出来ないのだ。
「そんなに、真相が気になるのか?」
思考回路が過負荷で悲鳴を上げる直前まで考えて、本当にどうしようも無くなったとき、不意に水城の鼓膜を鈴を鳴らすような声が叩いた。
音を立てるくらいの勢いで顔を上げれば、閉じていたはずの水城のオフィスのドアは開け放たれていて、そこに着物を身に着けた女がもたれていた。
少女と女性の、ちょうど中間点ほどの年齢に見える女は、着物と言ってもきっちりと着込んでいるわけではなく、まるで血のように赤黒い色に染められた一点の模様さえない物を無造作に着崩している。
「――どちらさまでしょうか?」
目を見ているだけで飲み込まれそうになる。
それでも何とか問い返した声に、女は少しだけ笑って応えた。
「無道
淡々と応えられる言葉に、水城はただ目を見張る。
無道、ということは、何処を探しても見つからなかった無道一家の親族なのだろうか。
その反応が、分りやすいくらいに顔に出ていたのを読まれたのか、魅と名乗った女はまた少し口元をゆがめて、しかし顔の一番表面に浮かんでいる水城の疑問などまるで興味も無いかのように口を開いた。
「真相が気になるのか? それを知ってどうする? 藍音と朱音を殺したのは夜散と咲夜なのだろう? 二人はそれを認めていて、児童相談所も裁判所も警察もそれで納得した。 今更かき回してどうする?」
魅は、酷く愛らしい顔に美しい微笑を貼り付けて、とても穏やかとは言えない言葉をその口から紡ぐ。
不自然さを伴わない不自然さが、無道兄弟妹と似ている、と水城は思った。
目の前にいてなお、蜃気楼のように消えてしまいそうな、だけど圧倒的な存在感を放つ、矛盾した空気を身に纏った魅に、水城は無意識の内に身を遠ざけようとしていた。
それに気付いて、ようやく思考回路を現実に適応させようと試みる。
「――真相を、」
たった一言だ。
それしか言っていないのに、その先を見抜かれたような視線に射抜かれて、言葉と共に空気を飲む。
しかし、水城は、引かなかった。
「真相を、知りたがってる人も居るだろう。 悲しんでいる人だって居るはずだ。 何故、あの子たちが親を殺さなければならなかったのか。 何故、無道夫妻が子供に殺されなければならなかったのか…。」
言葉は、上手く言葉として成していなかったかもしれない。
水城はそれだけ魅に圧倒されていたし、魅は水城を押し潰そうとする空気を緩めなかったから。
しかし彼女は、彼のその言葉を聞いてから、張り詰めていた糸を緩めたのである。
美しければ美しいほどに、殺意までもを匂わせる微笑もまた、少しだけ緩めて。
「お前、基本的に善良なんだな。」
だから水城は、空回る。
殺されてしまった無道藍音と朱音のために。
殺さなければならなかった夜散と咲夜と朝咲のために。
それは確かに美徳であるかもしれないことだったが、しかし魅は穏やかに微笑んだまま嘲笑の言葉を吐いた。
「だけどそれは、どうしようもない馬鹿と同義だ。」
魅の空気に飲まれそうになっていた水城も、流石にかちんと来た。
自分が、慄いて崩れ落ちそうになっていることも忘れて、目の前の女を睨むように見上げる。
しかし、彼が反論を言うよりも魅が口を開くほうが早かった。
「何故藍音と朱音が殺されたか? そんなのは決まっている。 殺されるべくして殺されたんだ。」
既視感を伴う酷い違和感が、女の口角を吊り上げる。
その言葉に、水城は反論しようとした。
魅が、総てを言い終わる前に「それは違うはずだ」といいたかった。
しかし、水城はやはり言葉を押し出すことが出来ず、魅は息切れを起こした生き物がそうするように、喘ぐように奇妙な表情を浮かべた水城を面白そうに見つめながら続けたのだ。
「親子関係なんてものは、とっくに破綻していた。 それ以前に、あの家族に親子関係なんてものが成立していたかさえ怪しい。 なぜなら、あいつらが生まれたときからそこには被害者と加害者しか存在しなかった。」
親子関係も、夫婦関係も、ともすれば兄妹関係もその時点で破綻していたのかもしれない。
魅に言われて、水城がその意味を噛み砕くまでに、しばらくの間があった。
何も言い返せないでいる水城に、魅はもしかしたら失望したのかもしれない。
言いたいことだけ言うと、魅はくるりと音も立てずに踵を返して水城のオフィスを後にしたのである。
水城の視界に、赤黒い着物の残像だけが残された。
しかし水城は、そうして初めて彼女を微笑ませる違和感に気付いた。
もし無道魅に、「どうして人を殺してはいけないの?」と問いかけても、きっと彼女には質問の意図は通じないだろう。
その、会話は成立しているのにどこか意志の疎通が困難であるような印象を受けるそれは、無道夜散と無道咲夜に対して覚えたそれを同じものだと感じた。