(アイ)()らわれ()(ニジ)る 



 事件記録についての詳細を見ていた水城は、三枚目の記録に眼を通すと、そこでファイルを閉じた。
 彼が関わるべき部分は、事件の捜査ではない。
残された子供たちの、未来に関わるべきなのだ。
 水城はファイルを横に押しやり、珈琲のカップに口をつける。
本当ならアルコールが欲しいところだったが、仕事柄、毎回そんなことを言うわけにも言わないだろう。
 濃いめに淹れた一口を飲み下して、水城はモニターに視線をやった。


『咲夜、僕たち、咲夜がいないから凄く寂しいよ。目は?』
『もう大丈夫だよ。もう痛くは無い。夜散こそ、耳は?』
『ピアスを返してもらえない。』


 不満そうな夜散の言葉に、水城はもう一度ファイルを開く。
ピアスごと耳を千切られたという記録は確かにそこにあり、千切れた耳は歪な形のまま夜散の頭についている。
 反対側にはおそらく、千切られたピアスの片割れが今も耳にはめられているのだろう。
 基本的に閉鎖病棟では余計なものは持ち込めないし、兄弟でも男女は別の病棟に入ることになっている。
それでも、現在無道夜散と無道朝咲が同じ部屋に入っているのは、ひとえに夜散が朝咲を離さなかったからだ。
 事件後、腹部を刺された朝咲と眼を潰された咲夜に比べれば比較的軽傷で済んだ夜散は、その意識が戻るまで咲夜と朝咲から離れなかった。
 先に眼が覚めたあとは、執拗に朝咲を手の届く範囲にとどめようとし、文字通りその腕から朝咲が引き離されると爆発的に感情を荒立てて暴れたのだ。
 それこそ、夜散は医療行為であろうがカウンセリングであろうが、理由が何であろうとも関係は無い。
 そしてそれは、兄妹のピアスに対しても同じだったのである。
ただし、千切れた夜散の耳に着いていたものは、未だ事件の証拠品の一部として警察に預かられている。
 片耳に残されたピアスと、朝咲。
それが、ぎりぎりの妥協点だった。


『さくちゃん』
『なに、朝咲。』


 モニターの向こうから聞こえる無道朝咲の声は、酷く希薄だ。
その存在が、そこに在っても無いように感じるくらいに。
 水城は苦々しい感情を飲み込むように、苦い珈琲にまた口をつける。
 向かい合って座った咲夜と夜散は、自分たちの間で何か大事なものを包むように朝咲を抱え込んでいる。
 ごく平均的な14歳という年齢に見合うだけのココロをなくしてしまった朝咲は、自分の要求を言葉に出来ない幼児がそうするように、ただ笑って咲夜に腕を伸ばす。
 ごく平均的な14歳という年齢のココロを持ちながらも、その感情のコントロールが出来ない夜散は、咲夜を求める朝咲を腕に閉じ込めるようにして笑う。
 ごく平均的な14歳という年齢に見合わないココロを残した咲夜は、悪戯っぽく笑う夜散に一つ溜め息を落としてから、朝咲を夜散ごと抱きしめた。


『朝咲、愛してるよ。』
『さくちゃん、大好きよ。』
『朝咲、僕も愛してる。』
『大好きよ、ちるくん。』
『咲夜、僕は?』
『夜散も愛してるよ。』
『うん。僕も咲夜を愛してるよ。』


膝の間に朝咲を抱いている夜散を咲夜は正面から二人とも抱きしめる。
そして最初に朝咲の頬に唇を落とすと、それを見ていた夜散が同じように顔を近付けた。
咲夜が夜散の頬に唇を落とし、そしてそのまま夜散は、咲夜が朝咲にキスをした場所に唇を落とす。
 モニター越しに繰り広げられる、倒錯した世界。
当初は誰もがこの光景に危機感を抱いていた。
 事実関係から、三人が近親姦によって生まれた存在だとあれば、根拠などそっちのけで先入観のほうが先行してしまう。
しかし彼らは、抱き合って頬に唇を落とす以上のことは決してしない。
 だからいつしか、麻痺していたのだ。
過剰に触れる唇も、寄せ合った顔も、不自然に伸ばされた腕も。
水城は、何をどう考えれば良いのかも判断が着かないまま、ただ現実世界のどの常識すらも干渉させない、六畳程の世界を見つめ続ける。
未だ二人の兄に挟まれたままの朝咲を解放する間もなく、咲夜が夜散の耳に寄せた唇で囁く。


『夜散、さよならの時が来たらしい。』
『……どういうこと?』


モニター越しでは酷く聞きづらい咲夜の囁きに対し、夜散の少し剣呑な声は鮮明に答える。
水城は、手に持っていたもの総てをテーブルに置いて、食い入るようにそのやりとりを見つめていた。


『僕の、怪我が治ったってこと。』
『なら咲夜、それはサヨナラじゃない。ここに来るってことだろ?』


間違えるなよ、と。
むすっとした表情で夜散が返す。
咲夜は、少しだけ笑ったようだった。
少なくとも、モニター越しの水城には半分しか分からなかったけれど。
何しろ、モニターは彼の顔の左半分しか映していなかったから。


『そう出来ればいいんだけどね。』
『出来ないの?』
『出来ないらしい。』
『どうして?』
『夜散と朝咲はおかしいけど、僕はおかしくないらしいから。』


さらりと、咲夜は言う。
とても本人を前にして言うようなことではない。
聞いているこちらの方がひやりとするような言葉だったが、モニターの向こうは相変わらず他者の侵入を許さない不可侵の世界を保っていて。
しかし外から中に入ることは難しくても、中のものは外に全く無関心というわけでも無かったのかもしれない。
ちらり、と。
咲夜がモニターの方を向いて。
その画面越しに、向こうからは見えるはずのない水城の姿を、咲夜が捉えた。
一つしかない咲夜の眼が、自分の二つの眼とぴたりと視線を合わせる奇妙な感覚に、水城はぞわりと何かが肌を撫でるような感覚に襲われた。
だが、咲夜はすぐに唯一の視線を最愛の二人へと戻す。
と、咲夜の唯一の視線を独占するかのように、夜散は朝咲を抱き締めていた腕の片方を外して、咲夜に伸ばした。


『朔夜は詰めが甘いからねぇ。』
『そうかな…?あぁでも、そうかもしれないね。』
『僕は、朔夜のそんなところも好きだけど。ねぇ、朝咲?』
『朝咲はさくちゃんもちるくんも大好きよ。』


眠たそうな声で、朝咲が答える。
そして、夜散に抱き込まれた腕を一本咲夜に伸ばして、顔を寄せて。
残った方の目の瞼に口付けて。


『だから、さよならなんていわないで』


懇願するような、泣きそうな声で呟く。
無論、咲夜は朝咲を泣かさないし、夜散も朝咲を傷付けない。
だから、彼らは腕の中に閉じ込めた少女の瞼を、そっと閉じてやった。


『大丈夫だよ、朝咲。咲夜は何処にも行かない。何処へもやらない。』
『そうだよ、朝咲。僕は何処へも行かない。だから、安心しておやすみ。』


そして、朝咲がそうしたように、彼女の閉じられた瞼に優しく唇を寄せて。
普段から、あまり覚醒している時間が長くない朝咲は、無防備に意識を手放すことを躊躇わないから。
『おやすみなさい』と、素直に答えた朝咲が眠りに落ちるまでの、ほんの僅かな時間だけが、水城には違和感の無い世界にみえたような気がしていた。
もっとずっと幼い妹を寝かしつけるような、そんな、ごくありふれた兄弟妹(きょうだい)愛。
それは、どこにでもあるそれと同じ優しい色をしたそれだった。
ただ、無道兄弟妹の場合は、それが酷く歪な形に捻れていたから。
水城は、モニター越しに広がる倒錯した世界に奇妙なくらいに目に鮮やかな紅が差し込まれるまで、そのことに気付かなかった。


『…………っ!』


それは、確かに負った痛みに比例した悲鳴ではなかった。
だから水城も、とっさにモニターの向こうで何が起きたのか理解できなかった。
高らかな宣言の後にけたたましい夜散の笑い声が続き、彼が立ち上がった拍子に、あれほど大事に抱えていた朝咲の身体がごとりと音を立てて床に落ちる。
立ち上がった夜散とは対称的に、咲夜は床にうずくまるようにして身を固め、両手で顔を覆っていた。
その隙間から流れ出るのは、正にモニター越しの倒錯世界に滴った、紅。


『さくや。これでどこへもいかなくてすむね。』


そうして夜散が真っ赤な指先で摘んでいた何かを、自分の口の中に放り込み、その咽喉が一度だけ上下して何かを嚥下するのと同時に、水城は緊急非常用のベルを叩いた。
部屋を飛び出した理由は、無論咲夜を助けるためだったが、夜散が見せた狂行に吐き気がこみ上げたのもまた、理由の一つだった。



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2009/08/25


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