(イバラ)(トゲ)(ハナ)(カンムリ) 



誰かの、絶望的な泣き声が聞こえたような気がして、朝咲は目を覚ました。
薄暗い部屋の中。
冷暖房の備えがないこの部屋はどこかひんやりとした空気を湛えていたが、朝咲は寒いとは思わなかった。
両隣で朝咲を抱き込むようにして眠っている腕は、いつも暖かい。
その温もりからこっそりと抜け出して、少しだけ部屋の扉を開けて外を見てみる。
耳鳴りのような甲高い声の女が、なだめようとする男に手を振りかぶっている姿が見えた。
振りかぶった女の手を軽々と受け止めて、男が女を抱き寄せる。
だけど女はそれを突き飛ばして何かをつかむと、それを男に叩きつけて、そして家を飛びだして行った。
何かを叩きつけた瞬間、ぱっと散ったのは、紅だった。
薄暗い部屋の中に舞った、鮮やかな紅。
だけどそれを叩きつけられた男は、その紅には目もくれず女の後を追う。
誰も居なくなった其処に、取り残された紅の残骸を見つめて、朝咲は小さく呟いた。


「おはな?」


乱暴に閉められた玄関の扉の音を聞いてから15秒数えて、それから朝咲はするりと小さく開けた部屋の扉の隙間から抜け出した。
近寄って、床から紅い斑点を一つ、摘んでみる。
 今まで見たことがある花の、どれとも違う色をしている、それ。


「ほんものの、おはな?」


 食い入るように見つめて、自分が知っているそれと、同じようで同じではない花弁に魅入る。
朝咲の母親は造花が好きだったから、朝咲が本物のそれを見たのは初めてに近かった。
マガイモノではない色彩は、今にも自分の視界を焼き尽くしてしまいそうな鮮やかさを持って生きている。
だけど、朝咲はそれが鉄の匂いを伴う『紅』ではないことに、少しだけ安堵していた。
母親が造花を好むその理由を、朝咲は直接聞いたことはなかったけれど、何となくは知っていた。
『散らない』からだ。
造花は作り物だから、散らないし枯れない。
だから彼女の母親は、家に造花を飾る。
だけど、朝咲は造花ではないそれを、家の中で見つけたのだ。
きっと父親が抱えて持ってきたのだろうそれは、玄関を上がって廊下を真っ直ぐ行ったところにある花と同じ形をしているけれど、だけど総てが違っていた。
母親は怒って、泣いて、何かを叫んで飛び出して行ってしまったから、気に入らなかったのかもしれない。
しかし、それを身を潜めながらやり過ごした朝咲自身は、酷くそれに興味を惹かれた。
リビングのテーブルの上には、なぎ倒されたグラスが二つとその中にも水を被った紅い花弁が、ぽたりぽたりと紅の模様を描いている。
そして床には、花の束が無造作に投げ出されていた。
朝咲は玄関の扉が開かないかどうか、一度だけふりかえってから、花に手を伸ばす。
花弁に、細かに糸を織り込んだ形跡が無い。
光の当たり具合で光沢を放ったりもしない。
触れた指先からは、さらさらするような、きしきしするような手触りがした。
そして何より、とても綺麗な匂いがする。


「ほんものの、おはな。」


片言のように呟いて、朝咲は束になったそれから一本だけ抜き出してみた。
たくさん、たくさんの朱い花。
握ってみれば、無数の棘が朝咲の手の平に食い込んでいた。


「いたい…」


呟いて、ぺろりと手の平を舐める。
それでもふつりふつりと、緩やかに膨れ上がる紅い体液は止まらなくて、仕方が無いので朝咲はそれを着ていたシャツにこすりつけて綺麗にしようとした。
一度目は舐められたけれど、鉄の味は好きじゃない。
鼻に抜けるあの独特の匂いも、禍々しいくらいに目を引く鮮やかさも、朝咲に取っては穏やかとはいえ言えない情景と結び付いているから。
あれは嫌いな色だ。危険だから。
ごしごしと、服に手をこすりつける速度が速くなっていく。
無造作に頭から被った白いシャツに、赤黒い筋が走った。
白いシャツに線を描いた紅を、嫌だとは思わなかったけれど、手のひらにぺたぺたと残る液体の感触だけはどうにも不快感を拭えなくて、朝咲は眉間に皺を寄せる。
体の中の体液なんて、全部全部水のようにさらさらしていればいいのに。
流れたかどうか分らないくらい、全部全部透明ならいいのに。
一生懸命手の平を拭いているというのに、朝咲の手はどうしても綺麗にならない。
いらいらして、朝咲は無造作にテーブルの上にこぼれた水溜まりに手の平を叩きつけた。
ばしゃんと水が跳ねる音と、ばんっと手の平が痛む音が、鼓膜の奥で奇妙に交差する。
そして。


「「朝咲!!」」


とても良く似た声が背中から聞こえて、「なあに?」と振り返ろうとした朝咲はしかし、声を返すより先に両側から腕を引っ張られた。
がくんと、抗えない力で引かれて、体勢を崩す。
 無防備に後ろから倒れた体は、床に直接叩きつけられれば結構な痛みに晒されただろう。
だけど朝咲は背中から倒れることもなければ、床を転がされることもなかった。
ほとんど一瞬にして部屋に引きずり戻された朝咲が、自分の状況を確認出来たのは、体の前と後ろを体に馴染んだ温もりで挟まれてからだった。
ばたんと、閉められた扉の音は、彼女達を唯一保護する空間を、作り出した音だろう。
がたがたと、何かが倒れたりぶつかったりする音が、狭い部屋に反響する。
その度に朝咲の体はぐらぐらと揺れたけれど、最後に落ち着いた時には、何もない床の真ん中にへたりと座り込んでいた。
そして、朝咲の体には、四本の腕が痛いくらいに体に絡み付いていて。
背中から朝咲を抱き締める腕は、朝咲の薄っぺらい腹に回されていて、泣きそうなくらいに震えた吐息が首筋を擽っていた。
前から朝咲ともう一人まで抱き込もうとしている腕は、朝咲の顔を自分の胸に寄せるように伸ばされていて、押しつけられた胸からは早鐘のような鼓動が聞こえていた。
そして共通して僅かに震えている腕に朝咲は自分の手をどこに持てばいいのか分からなかった。
震えている腕は四本。
だけど朝咲には二本しか腕が無くて、しかも片方には花が握られており、もう片方は紅く穢れていて汚い。


「ちるくん、さくちゃん。」


迷った末に、朝咲はただ彼らの名前を呼んでみた。


「朝咲。勝手に外に出ちゃダメだ。」
「うん。ごめんね、ちるくん。」


背後からの声に応える。


「何も、されなかった?」
「うん。誰も何もしてないよ、さくちゃん。」


そして前からの声に応えて。
「本当に?」と、前後同時に問われた言葉に、何だか少し笑いながら「本当に」と応える。
それでようやく納得したらしい夜散と咲夜が、朝咲に絡めた腕を緩めた。
そして夜散は咎めるような目つきで朝咲を睨む。


「急にいなくならないでよ。心臓が止まるかと思った。」
「本当に。お願いだから、僕らの手の届くところにいて、朝咲。」


朝咲が答えるより早く、咲夜が縋るような声で続けた。
それを、ごく当たり前のように受け止めた朝咲は、やんわりと二人の手から逃れて、戦利品を見せる。


「本物のお花よ。」


赤黒く汚れた手に持ち替えて、朝咲は酸素に触れても鮮やかさを失わない紅を突き出す。
毒々しい紅は、薄暗い部屋でもよく生える。
白い朝咲の手の中では、その青々とした茎も葉も棘さえも映えていたけれど、それより早く夜散と咲夜が目に留めたのは、紅い体液で汚れた手の方だった。
 薄暗い部屋には上手く溶け込んだ変色した紅も、白い手の上ではまだその存在感を主張していたから。


「朝咲?これ何?」


少しだけ厳しい口調で、咲夜が問う。
だけど、朝咲自身はもう咽喉もとを通り過ぎた痛みは忘れてしまっていた。


「これはね、さくちゃん。朝咲の手よ。」


 ふふ、と。
朝咲は吐息を漏らすように静かに笑う。
 それはただ、厳然たる事実であって、朝咲はそれ以上のことを考えていない。
もう、鉄の匂いも紅い色も、朝咲が気にする要素は流されてしまったのだ。
 だって此処には、咲夜と夜散が居る。
朝咲が、一人で痛みを耐える必要など無い。
夜散と咲夜は、いつだって朝咲を守ってくれるから。
 無知ゆえに無垢でいられる存在に、咲夜は諦めたような溜息を漏らした。


「それじゃあ朝咲の手が赤いのは、何でも無いんだね?」
「うん。お花を刺しちゃっただけなのよ。」


 先ほどとは打って変わったような穏やかな声に、朝咲はようやく紅く染まった理由を零す。
 危害を、加えられたわけではないということだけ確認すると、今度は夜散が大きく息を吐いた。


「朝咲、どうしたのかと思ったじゃないか。」


 ぶつぶつと、愚痴のような文句を口にしながら、夜散は朝咲の手をとる。
そして、ぺろりと赤を拭うべく、猫のように舌を這わせた。
 鉄の味に、少しだけ眉を顰めながらも、夜散は朝咲の手の平から紅が消えるまでそれを繰り返す。
その様を見ながら、朝咲も咲夜も同じように眉を潜めた。


「朝咲、痛くない?」
「平気。でもちるくん、すごくくすぐったい」
「もう少しだから我慢して。」


丁寧に丁寧に。
動物が、産声を上げたばかりの我が子を汚す自身の血を舐めとるように、夜散は朝咲を綺麗にする。
その血の香りに惹かれて、彼らの捕食するイキモノが寄ってくる前に。


「綺麗になったね。」


ようやく満足して夜散が朝咲の手を離す。
その様を見て、満足そうにそう呟いたのは咲夜だった。
今まで夜散の手の中にあった朝咲の手を、今度は本人のもとに帰る前に自分の手の中に閉じ込めて見聞する。
本人曰わく、花を刺したというその痕跡は、流石にもう紅い体液を滲ませてはいなかった。
ただ、傷の内側はまだうっすらと紅が残っていて、朝咲の手の平の一部にはごく小さな、細い一本の線のようなものを残している。
それを痛々しいと思ったのは、おそらくその傷そのものよりもそこから流れた紅によってそう見えたのだろう。
ともかく、ようやく朝咲の言葉が事実だと認めた咲夜は、またも溜め息を吐く。


「朝咲」


身が持たないからやめてくれ、と。
本当はそう言いたかったけれど、「なぁに?」と応えた朝咲があまりにも嬉しそうに諸悪の根元を見つめていたから、毒気を抜かれた。


「花が好き?」


代わりに出てきた言葉は、酷く他愛もないもので。
咲夜が飲み込んだ言葉を想定していたらしい夜散も、話の転換に少し驚いた様子だったが、何も言わなかった。
咲夜の言葉に、朝咲は穏やかな笑みを湛えて肯定の意を示す。


「好き。ママのお花より、朝咲はこっちが好き。」


朝咲は、花弁を一枚ずつなぞりながら言う。
柔らかで、深い色をしている天鵞絨のような、だけどどこかきしきしした感触や、造花では分からない匂いを、夜散と咲夜にも感じて貰いたかった。
けれど朝咲と違って二人には、その感動は特別心に響くものではなかったようで。


「朝咲は、花が好きなの?」


ただ、その事実を、夜散は面白くなさそうに繰り返す。
ぶすりとふてくされたような顔に無言で朝咲が問えば、夜散はごく簡潔にその理由を述べた。


「僕は造花も生花も嫌いだ。あいつ等が好きなものは、一つ残らずこの世から消えてしまえばいいのに。」


その、酷く端的で身勝手な言葉も、咲夜と朝咲は笑わなかったけど。
夜散は朝咲の手の中でくるりくるりと回っている花に手を伸ばしたが、朝咲はそれから逃げるように花を後ろ手に隠した。
夜散がそれを手に取ったら、おそらく全部花を?ぎ取られてしまうと思ったのだろう。
しかし、夜散の行動を見越して逃げた先では、それを見計らったように咲夜が待ち構えていて、ひょいっと朝咲の手から花を奪ってしまった。


「あ!」
「別に捨てたりしないよ。良く見てみたいだけ。」


咲夜はそう言うが、言葉より実際に示した行動の方が、昨夜の感情を如実に表していた。
大輪の花の花弁の一枚に触れて、爪を立てる。
もちろん朝咲には気付かれない角度を考えて。
爪と指の僅かな隙間が、鮮やかな紅より僅かに色の濃い紅で染まる様を見て、咲夜はくすりと嘲う。
だが、その微笑みを別の意味であると解釈したらしい朝咲は、咲夜の微笑につられるように微笑む。


「その花、ちるくんみたい。」
「僕?」
「夜散?」
「うん」


不機嫌そうな表情に比例して不機嫌そうな声で夜散が、そして陰鬱の水底に沈みながら微笑していた咲夜が水面に引き揚げられたように、二人はそれぞれに顔を挙げて朝咲を見る。
朝咲はそれを受けて一つ頷くと、咲夜の手から一輪の花を取り戻して応える。


「綺麗で、だけど誰も寄せ付けようとしない感じが、ちるくんみたい。」


きらりと、朝咲の髪が零れて、右の耳朶に食い込んだ白いピアスに目を引かれた。
反対の耳に零れた髪を引っ掛けてやれば、其方には鴉の濡れ羽根のような黒が刺さっている。
 満足げに微笑んで、夜散は朝咲を抱きしめる。


「僕はこれ、咲夜に見えるけどな。」
「僕?」


 突然話をふられた咲夜は、目を見開いて問い返す。
こくりと無言で頷いてから、夜散は咲夜に顔に手を伸ばして、そこにかかる髪をのけながら、やはり彼の片耳に朝咲と同じピアスが刺さってるのを確認して、満足そうに笑って。


「コイツ、棘だらけじゃないか。僕が寄せ付けない感じを出してるなら、咲夜は来るものは拒まないけど、来たものはとりあえず突き刺す感じがする。」


 面白そうに笑う夜散に、咲夜は呆れたように溜息を吐く。
どこか不満そうな気配もするものの、否定しないあたりは自分も自覚済みなのだろう。
 だけど、棘は必要だと、咲夜は思う。
咲いた花は、守らなくてはいけないだろうから。
そのためには、相手を殺すための棘が必要だ。
 安易に触れさせないようにするための、空気も同じことなのだろう。
それが、虚構と虚勢のものだとしても、無粋な虫から『花』を守るためには、必要なものだから。
 花を取り戻した朝咲は、相変わらず薄い微笑で口元を飾りながら、その花びらに指を這わせている。
物珍しげな、そんな表情。


「朝咲。一番真ん中の部分をね、花冠っていうんだよ。」
「かかん?」


 すとんと、咲夜は壁に背を預けて座り込む。
花と、花を握り締める朝咲は、首だけを向けて問い返してきた。
 だけど、それ以上の知識が無い咲夜は、ただ笑って。


「花冠は、一番大事なものを隠しておくためのものなのかもしれないね。」


 ただ、静かに目を閉じて、特別高くも無い天井を見上げるように首の角度を変える。
朝咲はその言葉を理解出来ないように更に首を傾げたけれど、夜散はどこか納得したように頷いた。


「花弁も、蕾も、蜜も、種を育てる場所も。全部隠してしまえばいいのにね。」


 酷く、忌々しげな口調で、だけどそれに反して、夜散は大切なものを守ろうとするように朝咲を両腕の中に閉じ込める。
 夜散の言葉は、朝咲の咽喉の奥に何か酷く苦いものが通り過ぎていくような感覚を呼び起こした。
 それが、不快なのか、哀しいのか、それとも愉しいのか、朝咲には良く分らない。
ただ、視界に映った夜散と咲夜の表情が、泣き出しそうなものにしか見えなくて、だけどそれに対して自分がなんと言葉をかければいいのか、それも良く分らなくて。
 少し考えて、何も言わないほうがいいような気がして、朝咲はただ、静かに言葉を飲み込んだ。
すぐそこまで湧き上がってくるような感情や、咽喉の奥から漏れそうな細い悲鳴も、朝咲の意識していない場所から溢れそうになるもの総てを混ぜ込んで。


「僕らも一緒に、散ってしまえばよかったのにね。」


 寒くて重い空気の中で、夜散が朝咲を抱きしめる腕から少し力を抜きながら呟く。
 母親は、散ってしまうから生花を嫌う。
生花を嫌うのは、真っ先に散ってしまった花を愛していたからで。
 もし、全部散ってしまっていたら、母親は生花を嫌いになるだけではすまなかったかもしれない。
けれど、もし共に散っていたのなら、いわれない悪意に晒されることは無かったのだ。


「――ちるくんも、さくちゃんも、朝咲も。いつかはみんな散るわ。」


 泣き出しそうな声に、朝咲は呟く。
花を、大事に大事に、くしゃりと手で握り潰すような動作を繰り返しながら。


「みんな、いつかは散るの。」


 それは、早いか遅いかの違いしかない。
咲くことも無く散ってしまったのは酷く哀しいことだが、ある意味ではそれはそれで幸せだ。
 散ってしまえば、摘み取られることも、折られることも無いのだから。


「――僕らはもう、咲けないからね。早く散ってしまえばいいのに。」


 目蓋を閉じて、無言で天井を仰いでいた咲夜もまた、夜散のそれに倣うように朝咲に手を伸ばす。


「朝咲の蕾は、もういつでも咲けるのかな…」
「朝咲は、自分が咲くより散朝に咲いててほしかった。」


 ちるくんとさくちゃんにも、咲いててほしかった、と。
乾いた唇からは、酷くかすれたような声が零れ落ちる。
抱きしめることを目的としているわけではない、咲夜の手に、朝咲は自分も手を伸ばして応えた。
握り合った体温は、暖かい。
その温もりを更に求めるように、朝咲は咲夜の手の平を自分の頬に押し当てる。
 負った傷を舐めあうような行為は、足りないものを補おうと必死になる姿に似ていた。
だけど、最初から満たされることなど無いのだ。
 三人では、どうしても足りない。
四人いなければ、どうしようもない。
 だから、四人に戻らなければならない。


「朝咲、花を、育ててみる?」


 耳元で、夜散が囁いた。
その言葉が持つ意味を、一度で理解したのは、朝咲ではなく咲夜だったけれど。


「散朝を、咲かせてみる?」


 意味が理解できないから、答えられずにいる朝咲に、夜散はもう一度だけ訪ねる。
『花』を、『育てる』という言葉が、何を意味しているのか朝咲には分らない。
 けれど、それが本当に叶うなら、『散朝』を『咲かせる』ということを、朝咲は誰より望んでいたから。


「どうすればいいの?」


 応えた言葉には、迷いは無かった。
朝咲は、ついさっきまで総ての関心を攫っていた花を床に放り出して夜散を見つめ返す。
朝咲を抱きしめたまま、夜散は少しだけ笑った。


「簡単なことだよ。でも、上手くいくかどうかは分らない。練習をしないといけないね。」
「むずかしいの?朝咲にも、出来る?」


 不安そうな声に、夜散は応えなかった。
ただ、彼は薄く口元を撓らせて咽喉の奥で哀しく笑っているだけで。


「どうすればいいの?」


だから朝咲は、視線を変えて同じ質問をもう一人に投げかける。
咲夜は、床に放り出された紅い花をゆるりとした動作で手にとって、その中心に、花冠に、酷く愛おしそうに、そっと唇を寄せて、応えた。


「朝咲の花を、僕たちに頂戴。」


花弁も、蕾も、蜜も。
花冠の奥に隠されたもの全部。


「そうしたらきっと、僕らは散朝を取り戻せるから。」
「僕らは、また散朝を咲かせることが出来るから。」


 咲夜と、夜散の言葉は、密やかな確信に満ちていた。
そうなれば、もうあの男と女は、朝咲を苦しめることは無くなる。
そうなれば、自分たちは守りきれると、確信していた。
それなのに。


「散朝がまた咲いたら、パパとママはもうちるくんとさくちゃんを苛めない?」


 守っているようで、守られている。
ぐらりと、世界が歪むような目眩を覚えて、どうしても、泣きそうなくらいに歪められた表情で問い返された朝咲の言葉に、答えることが出来なくて。
 誰が一番苦しいかなんて、知っていたはずなのに。
 言葉に詰まった、二人に、朝咲は自分の体に絡みつく腕を優しく解いて、微笑んだ。
 泣きそうな表情でも、そこに涙はなかった。
透明で純粋な液体は、もう必要ないと判断されたのかもしれない。
 体は他の液体を必要としていて、心はそれを拒否している。
朝咲は、咲夜の手の中にあった花に手を伸ばすと、くしゃりとその花弁を握り潰して微笑んだ。


「あげる。朝咲のお花をあげれば散朝が帰ってくるなら、朝咲はちるくんとさくちゃんに全部あげるわ。」


 開いた手の平から、僅かな紅が零れ落ちて。
目蓋を閉じれば透明な水が溢れた。
 それを、静かに見ていた夜散と昨夜は、ゆるりと朝咲を抱きしめて、嘲った。


「散朝が帰ってきたら、」
「僕らはきっと幸せになれるよ。」



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2010/01/11


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