Eyes on Me







Act.48 : If I cry

 解 禁 区 





 男が出て行ってから、ピジョン・ブラッドはなかなか眠りにつけなかった。
『彼』がこの近くに来ていると思うと、それだけでピジョン・ブラッド胸の奥がざわつく。
それは、恐怖と歓喜をないまぜたような感覚で、とてもそれを抱えて眠るなど出来ない。
 それが、ピジョン・ブラッドを追いかけて来てくれている、というなら、彼女とってこんなに嬉しいことはないのだから、尚更。
だけど、『彼』が近くに来ている理由が、自分ではなくサファイアを追いかけているためであったら、その時は自分がどうすればいいのか、ピジョン・ブラッドには分からなかった。
どうして『彼』は、あの男にサファイア殺しを依頼したのか。
 暗闇は答えを返してくれない。
深く考えることは、苦手だった。
『考える』という行為は、自分達に与えられた行動パターンの中にはなかったから。
だけど、ピジョン・ブラッドは考える。だからこそ、と言った方がいいのかもしれない。
 『彼』か追って来てくれないことは、哀しい。
他の誰かの手にかかって死ぬのは、哀しい。
だけど、追手さえも掛けられず、忘れられて、『彼』の知らないところでのたれ死ぬのは、もっと哀しい。
 そう、考えただけなのに、ピジョン・ブラッドの身体中はきしきし音を立てて鳴き出した。
 そして不意に共鳴した、空気を裂く、かすかな音。
咄嗟にベッドから跳ね起きて飛び出し、ピジョン・ブラッドは毛布を掴んだまま、ささやかな盾にして身を退けた。
自分にはこんなことも出来たのか、と思うほどの、殆ど反射神経の産物だった。
 ピジョン・ブラッドは転がり出して床の上で体勢を整え終わる前に、ベッドの上には四本のナイフが突き立っているのを確認した。
 五感を澄まして、何が起こったのか状況を探ろうとする。


「おいおい。よけちまうのかぁ?」


 だが、自分で把握するよりも先に、酷く酔いしれたような声がその答えをくれた。
天井から声と共に振ってきたのは、黒髪の綺麗な姿とは裏腹な不遜な言葉の殺し屋。
くつくつと笑う声に、ピジョン・ブラッドの背筋に冷や汗が伝った。
まだ全然治りきっていない腹の傷が、またずきりと痛む。
 がたがたとテーブルやイスを倒しながら飛びのいたピジョン・ブラッドとは対照的なほど静かな動作で、ラピス・ラズリは数秒前までピジョン・ブラッドが眠っていたベッドの上に降り立った。


「――ラピス・ラズリ……」
「残念だったな、俺で。」


 ピジョン・ブラッドが掠れるような声で、絶望の溜息と共に相手の名前を吐く。
その心を見透かしたように、黒髪の美女は下卑た笑みを浮べた。
 それが不快で、不快に思う自分に嫌悪を覚えて、ピジョン・ブラッドは思わず唇の端を噛む。
 こんな血に酔った女に、分かったようなことを言われたくなかった。
無言で睨み付けるピジョン・ブラッドに、彼女は本当に楽しそうに笑う。
 眼の前の獲物をどうやって殺してやろうかと考えている、サディストの笑みだった。
ラピス・ラズリはベッドの上に突き立ったナイフの一本を手にして、舌舐めずりをしてそれを無造作に振り回し、迫ってくる。
 ピジョン・ブラッドの顔や腕がナイフの切っ先に振れて、紅い雫が散り、熱が走る。


「ほらほら、いつまで逃げ切れる?」


 彼女が本気になれば、生者は自分が気付かないうちに死者になるという。
 わざと殺さない様にしているくせに、わざわざそんなことを言うこの殺し屋に怒りが込み上げた。
 ナイフの刃を躱した瞬間に、ピジョン・ブラッドは手元に転がっていたコーヒーカップをラピス・ラズリの額に叩き付ける。
鈍い音が鳴ってコップが砕け、ぱたりと彼女の額から、血が落ちた。


「あら。」


 大して痛みも衝撃も感じないような口調で、それでもラピス・ラズリは意表を突かれたような表情を見せた。
 ピジョン・ブラッドは肩で息をしながら、その姿を睨み付ける。
自分の血を見てから、ラピス・ラズリはもう一度ピジョン・ブラッドを見て、背筋が凍るくらいに綺麗で残忍な笑みを見せた。
 それは、『本気』の現れだった。
本気で怒ったのか、本気で楽しんでるのか、ピジョン・ブラッドにはどちらか分からなかったけれど。
一瞬にして肉薄してきたナイフに、今度こそ死ぬと思った。
 『彼』の手でもなくあの男の手でもない、こんな女に殺されなければいけない自分が、酷く哀しかった。
『彼』のお気に入りのまま、男の手にかかって死んだであろうサファイアを羨ましく思い、そんな感情を抱く自分に吐き気がした。
感情を一つ自覚する度に、ピジョン・ブラッドは少しずつ自分自身に対する嫌悪を募らせていく。
『彼』が求めていたのは、こんなどろどろの心を抱えた存在ではなかったから。
そう、『彼』はいつだって、透き通るような美しい存在を求めていた。
例えば、サファイアや、ホルマリン漬けのエヴァのように。
だが、死んでしまえば、その苦しみも終わる。
目前に迫ったラピス・ラズリのナイフの刃の煌きを、ピジョン・ブラッドは美しいとさえ思った。
 その瞬間、


「ラピス・ラズリ。ピジョン・ブラッドを見つけても、勝手に殺すなって言わなかった?」


 ピジョン・ブラッドの鼓膜が、彼女が心の底から求めている声をとらえた。
冷静さを一瞬で打ち砕く声は、ピジョン・ブラッドが求め焦がれて止まなかった『彼』のものだったから。


「お前の都合なんて、知るかよ。」


 しかし、一番最高の瞬間に水を差されたラピス・ラズリは、うんざりしたような声を上げる。


「僕は君の依頼主なんだから、希望を聞く義務があるはずだろう?」


 『彼』は別れた時と変わらない笑みを浮べて応える。
 ラピス・ラズリはピジョン・ブラッドを殺そうとする手を止めたりはしなかったが、明らかに興を殺がれたようで、その切っ先は鈍っていた。
 それでもピジョン・ブラッドは足を止めることも出来ず、狭い部屋の中を逃げ回る。
酷く心を掻き乱された状態で、そこまで出来たのはいっそ褒められるべきことだっただろう。むろん、生と死という概念において、生に重きを置いているものから見れば、という話ではあるが。


「俺がいつ何処でどうやって殺そうと、お前には関係ないね。」


 不機嫌そうに、殺し屋は言う。
手の平のナイフと零れた血液を弄びながら。


「サファイアを殺し損ねたのが、そんなに気に食わなかった?」


 からかうように、『彼』は言う。
まるで幼子の悪戯を窘めるような口調で。


「気に食わないね!コイツくらい殺させてくれなきゃ、割に合わないさ!」


 殺気だった言葉と共にラピス・ラズリはベッドに突き立っていた残りのナイフを引き抜き、無造作にピジョン・ブラッドに向かって投げつけた。
 ピジョン・ブラッドは一瞬、『彼』を見た。
『彼』はいつもとなんら変わり無く微笑みを浮べて、ピジョン・ブラッドを見ていた。
 『彼』の目の前で、『彼』以外の人の手で死ぬことは、ピジョン・ブラッドには耐え難いことだった。
眼の前に。手を伸ばせば触れられるかもしれない距離にいるのだから、尚更。
 『彼』を目の前にして、再び背を向けることがあるなんて、ピジョン・ブラッドは想像したこともなかった。けれど。
ガシャン。
ナイフが刺さる音の代わりに聞こえた激しい音に、ラピス・ラズリの舌打ちが続く。
 ピジョン・ブラッドは床に無残に放られた毛布を掴み、それで身を守る様にして、体当たりで窓を突き破ってラピス・ラズリから逃げおおせたのだ。
 ナイフを放ったのがラピス・ラズリではなく『彼』だったなら、ピジョン・ブラッドは喜んでその腕の中に戻っていくことが出来たのに。






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2008/11/28   再UP




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