Eyes on Me
Act.49 : You will be troubled
解 禁 区
走って、走って、走って。 目的地も無いまま、ただ逃げ切る為に、ピジョン・ブラッドは走った。 呼吸が切れて、傷が疼いて、涙が零れたけれど、ピジョン・ブラッドにはそれが涙なのだと認識することが出来なかったし、その理由がもっと別のところに存在していることも、もう分からなかった。 ただただ走り続けて、そして行き着いたのは、町外れの寂れた廃墟。 ようやく足を止めて、逃げることから隠れることに変更したピジョン・ブラッドは、顔を濡らしている水分を拭いながら視線を巡らせる。 そして屋根のような、少し高さのある場所を見つけて、攀じ登った。 ラピス・ラズリには対した障害にはならないだろうが、少なくとも地面からなら視覚になる。 隠れ場所を確保したピジョン・ブラッドは力尽きるように冷たいコンクリートに横たわった。 もう、涙は乾いている。 しん、と。虫も鳥も風の音も消えた大気の中で、ピジョン・ブラッドは星の見えない空を見上げた。 こんなに静かで、穏やかな寂しい夜を、ピジョン・ブラッドは知らない。 だけど少しだけ、生まれる前に似ている、と、思った。 記憶ではなく、漠然とした感覚として残っているその場所は、多くの音がして、声が聞こえていた。 温かい体温に包まれていて、そして酷く寂しい場所だったのだ。 それが、ピジョン・ブラッドが持っている唯一のジザベルの記憶だった。 真っ暗な廃墟の中で、かすかな足音を聞いて、馳せていた思考回路が呼び戻されて、ピジョン・ブラッドは声を上げた。 「ウォルフ?」 自分が呼んだその名前さえ、どちらの狼を指して呼んだ声だったのか。 廃墟の上から見下ろした場所で、息を切らせていたのは、先ほどその腕から抜け出した方ではなく、それより更に前にピジョン・ブラッドの同胞を奪いに行った方のウォルフだった。 「無事か?」 「十分に有事だ。でもまだ死んでない。」 端的に答えた声は、端的な感情しか孕んでいなかった。 もう切れた呼吸も戻り、流した涙も乾いていたから。 「ピジョン・ブラッド」 静かに呼ばれた名前は、やはり彼がサファイア殺しを完遂して来たことの裏付けでしかなかった。 何故なら、ピジョン・ブラッドは自分の名前をウォルフに告げたことなどないのだから。 ならば、サファイアは苦しまずに済んだのだな、と。ピジョン・ブラッドは少しだけ安堵した。 「降りたいんだけど、手を貸してくれる?」 ピジョン・ブラッドが身を乗り出せば、ウォルフはそれに両手を挙げて応じる。 「飛び降りろ。受け止めてやる。」 うなずいて飛び降りると、凪いだ大気の中にかすかな風が生まれ、ピジョン・ブラッドとウォルフの鼻を血の香りが掠めた。 それはピジョン・ブラッドの傷口から漏れた鮮血であり、ウォルフのコートに跳ねたサファイアの血痕であったが、流れてしまったそれは、一様に鉄の匂いを放っていた。 「何があった?」 「別に。フェンリルが来ただけだよ。」 ウォルフはピジョン・ブラッドを腕に捕らえながら、彼女と同様に端的な言葉で問い掛ける。 ピジョン・ブラッドはやや正確さに欠ける言葉で応えたが、それも嘘を言っているわけではない。 更に一言、ピジョン・ブラッドは補完した。 「僕を殺しに来た。」 それは、もう待ち飽きる程に待ち望んでいた瞬間だ。 気持ちがこれ以上に無い程高揚していた。 どくん、と。跳ねる鼓動を胸と腹の傷口で意識しながら、ピジョン・ブラッドはウォルフの腕の中から彼を見上げる。 「どうせ、サファイアから聞いたんだろう?」 「大体のところはな。」 ウォルフは少し怒ったような口調で応えたが、ピジョン・ブラッドには何故彼が怒るのか、その理由は分からなかった。 世界は、分からないことだらけだ、と、ピジョン・ブラッドは思う。 それだけ、「知らない方が幸せ」な事が多いということか。 自分が、『彼』にとってどんな存在であるのか、分からなかった。知りたくなかった。 彼が、自分にとってどんな存在となったのか、分からなかった。知りたくもなかった。 「狩りの仕方を習っておくべきだったね。」 考えることを放棄したピジョン・ブラッドは、感情で言葉を紡いだ。 心からそう思い、手を濡らしていた血を舐めとる。 それは、ピジョン・ブラッドにとっては生まれた時から身近にあった色。 慣れているはずのその味が、奇妙なくらいに苦い気がした。 |
2008/12/01 再UP |