Eyes on Me
Act.44 : Then because I continue crying
解 禁 区
ピジョン・ブラッドが目覚めた時、一番最初に見たのは薄汚れた部屋の天井だった。 それ程高くもなく、壁の色合いも陽にさらされて褪せている。 それだけでも、あの家とは随分違う世界に辿り着いたのだな、と、彼女は思う。 上体を起そうと、ほんの少しだけ身体を動かしてみた。 そして、たったそれだけの動作であったのに、腹部に走った痛みに眉を顰める。 「気分は?」 不意に掛けられた男の声に、ピジョン・ブラッドがそちらの方に視線をやると、視界にはテーブルにバラした銃を広げている長い黒髪に黒い眼の男が映っていた。 自分の視界が捕らえた情報を、ピジョン・ブラッドは自分の情報として処理するまでに、ほんの少しだけいつもより時間がかかった。 「………」 多分、言葉を返せなかったのは、その銃が自分の脅威になるかはかりかねたからだろう。 と、いうことにしておこう、と。ピジョン・ブラッドは結論付ける。 そしてまた、洞察と思考回路をもって、その光景を観察してみる。 何となく、助けられたのだろうとは思ったが、それはピジョン・ブラッドが頼んだわけではないし、加えてバラした銃を手慣れた様子で扱うこの男が、危険ではない保障も無い。 眉を顰めた半分の理由は傷の痛みだったが、もう半分の理由は、むろんこの男に対する不信感からだった。 それでも彼はピジョン・ブラッドの視線に臆することも無く、作業を続けながら聞いてくる。 「名前は?」 男の質問に、ピジョン・ブラッドは応えられなかった。 『ピジョン・ブラッド』という名前は、彼女の感覚では確かに名前であったが、厳密には名前ではなくて作品名であることも、ピジョン・ブラッドは知っていた。 「…モルモット」 だからピジョン・ブラッドは苦し紛れに応える。 答えであるはずなのに、疑問系になりそうだったのは、それもまた、厳密には自分達の代名詞ではあっても、名前にはなりえなかったから。 「それはイキモノの名前だろう?」 「でも、そう呼ばれてた。」 そう、確かに嘘ではない。 だって、名前は呼ばれる為のものだ。 彼は子供たちのことを、真っ正面からそう呼ぶことはなかったものの、確かにモルモットと呼んでいた。 「何故?」 「実験道具だから。」 「……それなら兎の方が似合うな。名前は?」 納得してはいないらしい男は、もう一度同じ言葉で問い掛けてくる。 何故そんなに名前にこだわるのか、ピジョン・ブラッドには分からなかった。 それほどまでに、名前が重要なものであるとは、思っていなかったから。 そもそも彼は、名前などくれなかった。 与えられたのは、記号だ。 ただ、個々を判別するための呼び名。 数字でもアルファベットでも、花の名前でも鳥の名前でも魚の名前でも、何だって変わらなかったはずだ。 その中で、彼が選んだものが、たまたま石の名前だった。 ただ、それだけ ピジョン・ブラッドは軽く眼を伏せて、応える。 「――ずっと前に忘れた。貴方の名前は?」 「あいにく、俺もどこかに捨ててきた。強いて言うなら、殺し屋か?」 にやり、と、笑う表情は、まるで『殺し屋』という単語に対して、陳腐な言い回しだとでも言いたげな様子だ。 だけどピジョン・ブラッドは、そう応えた言葉に、自分の中のどこかが惹かれるのが分かった。 捨てた名前。殺し屋。黒い眼と黒い髪。そして、『彼』からは決して知ることの無かった、煙草の匂い。 「殺し屋?」 「仕事だ。」 「――そう。」 その言葉に、連鎖的にピジョン・ブラッドの瞼の奥には、散々焼き付けられた顔が浮かぶ。 もう、体中余すことなく、心の中にも頭の中さえも、ピジョン・ブラッドを埋め尽くした存在。 彼と同じ生き物だ。 それだけでピジョン・ブラッドの抜けるような白い顔に薄い冷笑が浮かびかけて、危うく彼女は変わりの言葉を吐いた。 「狼かと思った。」 「狼?」 「僕を追いかけてくる人のこと。」 ゆっくりとと視線を動かして、窓の外を見る。 ピジョン・ブラッドを殺そうと、追ってきたのは、ラピス・ラズリだった。 彼はまだピジョン・ブラッドを追いかけては来ない。 サファイアのところへ行ったのだろうか、と。 自分には、追いかける程の価値も、無いのだろうか、と。 ピジョン・ブラッドの眼と、サファイアの天使を天秤に掛けるのなら。 彼の方に傾くのがどちらなのか、ピジョン・ブラッドが推し量るには、重すぎる選択肢だった。 |
2008/11/14 再UP |