Eyes on Me
Act.42 : The thing which suites these eyes
解 禁 区
今、ここに存在する「自分」という生き物が、自分自身である、という実感を持てる瞬間は、ピジョン・ブラッドにとって彼といる時だけだった。 彼が自分を求めてくれている、ということだけ。 それ以外の存在意義は、必要無かったのだから。 例えそれが、全部紛い物だったとしても、自分にとってはそれが全てであったから。 だからそこで、自分の狭い世界が始まって、完結していても、なんの不都合もなかったのだ。 だけどそこから逃げ出したピジョン・ブラッドは、足を縺れさせてよろりと体勢を崩す。 見知らぬ街では、自分を絡めとろうとしているような視線がうるさかった。 その眼も、その髪も、その体も、どうやら目立つらしい、と。 ピジョン・ブラッドはゆるりと思考を巡らせる。 だが、今一番周囲の人間が自分を見る理由は、この傷なのかもしれない。 そっと手を這わせれば、ぬるりと紅い液体が、ピジョン・ブラッドの白い手を染めた。 まるで中身を引きずり出すかのように、腹部に走った紅い跡。 痛みは感じていなかったが、服や身体を濡らす液体の生臭さに、ピジョン・ブラッドは辟易していた。 血が止まらないから両手で押さえる。 だから、その臭いに吐き気を覚えても、鼻と口元を押さえることは出来ない。 どうしたものか、と。 ピジョン・ブラッドは僅かに眉をしかめた。 服も、腕も、みんな真っ赤だった。 この目の色と同じ。 酸素に晒されているソレは、何れ黒に変色してしまうのだろうけれど。 紅い眼のピジョン・ブラッドは、浅い呼吸を繰り返す。 鮮明な意識に対して、血を流しすぎた身体は悲鳴を上げていた。 サファイアに言われていたのに、危うく殺されてしまうところだった。 息が切れる。 酸素を貪る音が、咽喉の奥でうるさかった。 足も、もう思うように動かない。 ごく近くで、ピジョン・ブラッドのその状態に気付いたらしい女が、人込みを裂くように高い悲鳴を上げた。 同時に、伝染していくように周囲に波が広がった。 それは耳鳴りに重なって、ピジョン・ブラッドの神経を酷く逆立てる。 うるさい。 酷く不愉快だったが、その一言ですら言葉に出来ない程に、ピジョン・ブラッドは消耗していた。 躓く物も無い道で、くらりと視界が揺れて、体勢が倒れるのが分かる。 それなのに、ピジョン・ブラッドは自分の体を支えることも出来ない。 だが、地面と抱き合わせる寸前に、ピジョン・ブラッドの体は何かに支えられて、重力に愛撫される前に止まっていた。 やめろ、触るな。 敏感に感じ取った手の感触に、反射的に眉が寄ったが、やはりそれだけでは意思の疎通など出来なかった。 ピジョン・ブラッドは、彼以外には何処も、何も触られたくなかったのに。 歪む視界と掠れる呼吸で辛うじて繋がれていた意識の中で、自分に触れた人間の姿を捕らえる。 一瞬、思わず眼を見開いて息を呑んだのは、きっとその眼が黒かったらからだろう。 吸い込まれそうな、深い深い黒。 闇のような漆黒。 彼と同じ色の眼。 ただそれだけの理由だ。 |
2008/11/03 再UP |