Eyes on Me







Act.40 : Run out even if say "good-bye" how many times

 禁 断 区 





 結局彼は父親の要求を飲むより他に選択肢が無かった。
何故、自分ばかりが、と。
そう思う感情も確かに燻っていたが、それがどれだけ無意味な停滞か、彼は知っていたから。だから、それならいっそ、何もかもメチャクチャに壊してやろう、と。
彼女との関係を清算して、彼女との絆を細切れに切断して、そして自分も壊れてしまえばいいのだ、と。
ようは自暴自棄になっていたと言える。
だけど彼は、自分のその行動すらも、今は他のどんな存在すらも諌めることも出来なければ咎めることも出来ないということを知っていた。
 いつものように彼女の部屋に入り、ベッドの上で上体を起したエヴァに声をかける。


「ごきげんよう、姉さん。」


 初めて彼女のことを「姉」と呼んだ。
いつもなら俯いたまま彼の言葉を聞いている彼女も、酷く驚いた様子で視線を向ける。
 さぁ、一世一代の猿芝居の始まりだ。
観客は要らない。
主演女優が悲嘆と絶望に涙して、そして不死鳥の様に生まれ代わるための、孤独な独り芝居。
彼は躊躇いもせずに、残酷な言葉を口にした。
彼女が未だ少しでも、正気のかけらがあるなら。未だ少しでも、彼を愛してくれているなら、それは言ってはいけないはずの言葉だった。


「エヴァ、別れよう。」


 彼が出産前の彼女の言葉を理解できなかったときと同様に、彼女が彼の言葉を理解している様には、彼にはとても見えなかった。
それでも構わずに続ける。
意味を理解するまで待っている余裕は、ウォルフにはなかったから。


「僕たちはこのままじゃいけない。」


 父親に言われるまでも無い。
エヴァには休息と治療と、何より救いが必要だった。
その為には自分は彼女の回復を妨げる異物でしかない。
 だから彼は彼女を捨てる。
一欠けらの愛情も、一縷の希望さえも悟らせないように。
愛しているから。誰よりも何よりも幸せになって欲しいから。
 そうじゃなければ、どうしてこんな事が出来るのだろう。
彼は彼女と、自分の中の一番大切な感情を失う。
 そして代わりに、彼女との子供を手に入れる。
彼女は彼と、自分が生み出した命を失う。
 だけど代わりに、心の平穏と未来を取り戻す。
それが、彼と彼女の父親が提示した条件だった。
 よく出来ている。
これで彼女の回復を妨げる二つのモノが、都合よくこの家から無くなるのだ。
 彼は、なるべく胸を空にした。
考えない様にした。
そうしなければ、どうしてそんな事を言えるのだろう。
 張り詰めて焼き切れそうな糸が彼を留めようとしたが、それでも彼は、言わなければならなかった。
 契約を交わした以上、後戻りの道は用意されていない。


「本気なの?」


 彼女は酷く震えた声を押し出す。
打ちのめされた彼女にこんな事を言うのは、自分の呼吸を止めてしまうよりも苦しかった。
それなのに。


「本気だよ。」
「貴方は私を愛してると言ったのに?」
「口にするだけなら、誰が相手でも出来る。」
「私が姉だから?」
「それも、ある。」
「――貴方は私が姉だと知っていた?」


 想いと、反対の言葉を口にするのは、こんなにも容易な事なのか、と。
彼は思い知った。
それでも、彼女の最後の言葉には答えることが出来なかった。
 知っているわけが無い、と。
そう口にしたら、彼は彼女に別れを告げることが出来なくなってしまう。
そうする自信が無かったから。


「知っていて、私に子供を産ませたの?」


 そんなはずが無い、と。
どんなにその一言を言葉にしたかったか。
だけどやはり最後には、その言葉は密度の濃い液体に沈んでいく指輪のようにのどの奥に飲み込まれていった。
それは自覚の範囲内ではあったが、それに続いた微笑は無意識の産物だった。
 自嘲の、笑み、と、言うのが正しいであろう、世界の歪みの上に浮き上がった微笑は、彼の生まれ持っての骨格もあって、酷く美しい造形をしていた。
だが、それは彼女にとってはまさに悪魔の微笑みとなった。


「そう。貴方は自分の研究の為に、生ませたのよね?近親者同士が生んだ子供がどうなるか、それを調べる為に子供を産ませたのよね!その為に私をめちゃめちゃにしたのよ!」


 激した彼女の言葉を、彼は否定しなかった。
そんなことを思ったことは一度も、微塵も、無い。
だけど、それを今彼女に伝えたところで、どうなる訳でもないのだ。
結果的に、今彼がしていることを考えれば、彼女がそう思う事は好都合なはずなのだから。


「何が生まれたと思っているの?貴方と同じ黒い眼の悪魔が生まれたのよ!貴方の母親も同じだわ!今更真実と称して姉弟だなんて!」


 彼女が酷く取り乱せば取り乱す程、それを前にした彼は酷く冷静になっていった。
 彼女は狂ってしまったのだ。彼を愛して、彼の子供を産んだ為に。
激昂がより激しくなるということは、それだけ彼の事を深く強く愛していたということなのだから。
 それは酷く哀しいことであったが、時間を戻すことの出来ない彼らには、もうどうしようもない。
神に縋ってどうにかなるなら、その足を舐めたって縋ったし、悪魔に魂を売ってどうにかなるなら、魂どころか体まで売り渡しただろう。
だけど現実には、誰も何も助けてくれないのだ。自力でどうにかしなければ、前には進めない。


「貴方は私を利用したのね。」


 彼女ののどが、掠れた声を押し出す。
その言葉だけは、否定したかったが、だけど、それだけを否定して、それでもここを去らなければいけないのなら、そんな言葉は無意味だ。
 何もかも終ってしまった。彼の世界は壊れてしまった。
それならいっそ、跡形も無い程に粉々に砕いてしまった方がいい。
 感情を水面下に殺して、彼は冷ややかに応えた。


「そうだね。手っ取り早いから利用させてもらった。近親相姦で生まれた子供は普通とは違う目の色になる可能性が高かったからね。だけど結果は真っ黒だよ。優性の法則のが強かったわけだ。」


 言っていて彼は、自分の顔の筋肉が笑みの形に変化していくのを、今度は自覚した。
こういうことに関して、自分の仕事は何て都合がいいんだろう。


「君の犠牲は無駄にはしないよ。生まれた子供も、大いに役立たせてもらう。」
「――そう、思い通りには、させないわ。」


 捩子を巻き過ぎて不自然にしか動かなくなった玩具のように。
虚ろな声といびつな笑みで言った彼に、彼女は低い声を押し出した。
 それは、紛れも無い母親の声。
産み落としてから今まで、一度も抱くことの無かった、あるいは視界にすら入れることの無かった我が子を想う、哀しい母親の本能。
と、彼は、思ったのに。


「心待ちにしていた子供が私に似ていたら、貴方あの子を見る度に私を思い出して不愉快になるのよ。」


 彼女の口から吐き捨てられた言葉は、彼が望んだものと正反対の言葉だった。
ああ、彼女は。
エヴァはこんなにも苦しいのだ。
こんなにも哀しくて、生まれる前まではあんなに愛した子供まで、憎まずにはいられないのだ、と。
そしてそうなるまで追い込んだ原因は自分なのだと思うと、自分自身の自虐的な微笑みが、胸に突き刺さった。
それでも彼の口は、言葉を紡ぐことを止めない。
廻り出した歯車が、自力で止まることが出来ないことを、今更ながらに思い知った。


「そうかな?君の存在は僕にとって、いちいち思い出すほど大きかったと思う?」


 見る間に彼女の顔が歪み、涙が溢れ出す。
人間はよく出来ている。
彼女を抱きしめて慰めたいと思う感情を確かに胸に抱きながら、彼の口は彼女を哭かせ続けた。


「本気で言っているの?」
「勿論」
「――貴方は本物の悪魔よ。」
「知ってる」
「――否定してくれると、思ったのよ?」
「何を?」


 そう彼が聞き返す前に、彼女は動いていた。
出産後間もなく、とても心を病んでいたとは思えない、栗鼠のように細やかで速い動き。


「エヴァ!」


 意識よりも先に、本能的に彼女が何をしようとしているのか悟った彼は、悲鳴のような声で叫んでいた。
その声に、彼女が体当たりで割った、テラスと部屋を隔てるガラスが、綺麗に共鳴する。
彼は腕を伸ばし、足を踏み出した。
その行動は、予期していなかった事態に対する反応としては、目を見張る程に早かった。
 だが、彼と彼女の間に隔たったベッドが決定的な物となった。
彼が窓辺に駆け寄って彼女の姿を確認する前に、彼女は地面に縫い付けられた死体に姿を変えていた。
 じわりじわりと。
この距離からでも広がっていく様が分かるほどに、鮮やか過ぎる紅い血が、蝶の羽根のように地面を彩っている。
 彼女は、即死だった。






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2008/10/27   再UP




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