Eyes on Me







Act.39 : Though it was not entered by indifference

 禁 断 区 





 出産を終えてから、彼女はどんどん病んでいった。
 出産直後には、一時的に正気に戻ったように見え、確かに意思の疎通もはかれていたが、それも日を追う毎に短くなっていく。
このままでは彼女の総てが狂気に飲まれるのは時間の問題だった。


「お前にこの条件を飲んでもらいたい。」


 居間に呼び出されて、前触れも無く父親に渡されたのは誓約書だった。
眼を通しながら、彼は父親の話にぼんやりと耳を傾ける。
彼女程ではないが、彼だって充分すぎるほどに神経を擦り減らしていた。


「お前と子供が傍にいたのでは、治る物も治らない。精神科医の話では、総て忘れてしまうことが出来れば、娘は治る見込みもあるといわれた。」


 父親は無表情で薄っぺらな紙に並べられたご託を読み上げる。
そこには、彼にとっては無情で非情な言葉が、これでもかと言うくらいに羅列されていた。


「もう、エヴァに会うなということですか?」


 この頃ではもう、怒鳴る気力も失せていた彼は、静かに父親に問い掛ける。
無気力になりつつあるのは、父親も同じだったが、まだこれだけ行動を起せる分、父親の方が衝撃が少ないことを意味している。


「分かってくれ。私にとってはお前もエヴァも大事な子供だ。お前はこの家を出てもやっていけるが、エヴァはもうこの家を出ることは出来ん。」


 無表情のまま、彼は溜息を残した。
気力など、当に消え失せたと思っていたというのに、それでもまだこの胸はふつふつと煮え立つ何かを抱えている。


「僕が拒否をしたら、どうしますか?」


 敵対心があったわけでも、反抗したかったわけでもない。
もう彼女と子供しか残されていない彼には、彼女とも子供とも離れる意志はなかった。
否、離れてしまったら、自分までもが壊れてしまうと思った。
何故なら、自分達はそう、確かめ合ったのだ。
愛を囁き、将来を約束して、そして辿りついた結果がこれだ。それでも、眼の届かない場所まで別離してしまうことには、耐えられなかった。


「あれは一生治らないだろうな。」
「それは、僕に対する脅迫ですか?」
「そうとってもらって、構わん。」


 だが、その彼の想いとは裏腹に、父親との会話は淡々としたものだった。
 ただ、本当に何をする気力も奪われてしまったように、彼には深くまで考えることが出来ない。


「貴方は僕のことも、彼女のことも大事な子供だとおっしゃった。」


 彼は小さく、だけどはっきりとした声で呟き、目線を誓約書から話して父親に向ける。
今まで、存在も知らなかった、望んだ事さえ無かった相手に。
父親は怯んだ様子も無く、それを受け止めた。


「僕にとって、彼女が生んだ子供が、まさにそれです。」


 彼が何を言わんとしているのか、子を成して産ませた事があるこの相手には、分かっているはずだ。


「たとえそれがまだ生まれていない段階だとしてもです。貴方は堕胎しろと言った。」


 あんなにも気力が萎えていたのに、言葉にしてしまうとそれは憤りとなって彼の身の内を不快な熱で焼こうとする。
小さなテーブルを挟んで向いに座っている父親を、彼は冷ややかに見据えた。


「貴方は殺せと言ったんです。」


 彼は静かに弾劾する。
 だが、その一言を叩き付けられても、父親は動じなかった。


「だか、結局あれはお前の子供を産んだだろう。」
「それは結果論にすぎない。」


 互いに氷点下の温度を孕んだ言葉を叩き付ける。
 同様に動じない息子に、今度は父親が叫んだ。


「それで娘が狂ったのも結果論だと言うのか?!お前が孕ませたりしなければ、こうはならなかった。」
「ええ、その通りでしょうね。貴方がたが最初から僕たちを実の姉弟だと言っていれば、そもそも僕達は愛し合ったりしなかったはずだ。終わった事は全部結果論に過ぎませんよ。」


 氷点下の温度を孕んだまま激した父親に対し、ごく対照的な程の冷静さをもって返した彼を、父親は物凄い形相で睨んでいた。


「――お前は、娘が狂ったままでいいと言うのか?」


 乱れた呼吸を整えながら、幾分か落ち着いた声が問い掛ける。
それを、本気で望んでいるのなら、自分はとっくに救われていただろうな、と、思う。


「いいえ。」


 考えるよりも先に、即答で紡ぎ出されたその言葉は、真実心からの答えだった。
自分達が、共に前の様に戻る事が不可能であるのなら、それならばせめて個々に、自分を取り戻すことは出来ないのか。
可能性があるのであれば、それが最善の選択であることくらい、彼にだって分かっているのだ。


「なら、話しは早い。娘はすでに治療の準備段階に入っている。ウォルフは自分の研究の材料にする為にお前に子を生ませたのだと言ってな。」


 だが、未だ鈍っている思考回路に、聴覚を通して襲ってきた衝撃に、彼は咄嗟に対処が出来なかった。
言葉も無いまま、今度こそ驚愕を露わにした彼に、父親は獰猛な獣の眼をして続ける。


「忘れさせる為にはまず、未練を残さぬように別れさせることが前提条件だろう?」
「よくもそんなことを!」


 考えるより、先に、今度こそ、本当に、怒鳴っていた。
それがどういうことなのか。分かってしまったから。分かりたくなんてなかったのに。
感情に阻まれて停止した思考回路はメインシステムが機能しなくても、理性はしっかりとサブシステムを機能させていた。
今まで彼の体を支配していた無気力が一気に沸騰した。
 彼は力任せ父親の胸倉に掴みかかったが、無意味な行動だった。
 父親は懐から出した銃を息子に突きつけて言う。


「さあ、条件を飲んでもらおう。」


 人間を構成するにあたって、無くてはならないエネルギーの根幹とも言える意思感情は、あっさりと力によって捩伏せられてしまった。






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2008/10/24   再UP




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