Eyes on Me







Act.37 : In the achromatic that the world was over

 禁 断 区 





 その夜、彼女の陣痛は始まった。
十月十日という予定よりだいぶ早い物だ。
 彼女が隔離されてから雇われたらしい主治医は、精神の失調から来る可能性が高いと言う。
 それは、彼女がこれ以上、子供を自分の胎内に宿しておくことを、拒否したことを示す。
彼にとって、それは子供を通して彼自身をも拒否されたという、酷く悲しいことであったが、だからといって自分自身がどうにか出来るものではない。
 父親など、一度胤を仕込んでしまえば、生まれて来るまでは無力で無能な存在でしかないのだ。
子供を抱えた女性を守る事は出来たとしても、子供を拒否する女性からその命を守ってやることは出来ない。
それが、女性にとっても無意識で唐突なことであればなおさらだ。
彼にはどうすることも出来ない。
 本来ならば喜びに満ちた瞬間になるはずのこの時間も、絶望を煽るだけだ。
 暗い廊下は、彼の絶望に向かって静かに侵食してくる。
それから逃れる術も無く座り込んで、扉の向こうの彼女の悲鳴を聞いていた。
一つの命を生み出すということが、どれほどの苦痛を伴うことなのか。
その命を愛していればこそ耐えられる痛みも、望んでいないのならどれ程の脅威となるのだろう。
 彼にはもう、子供を助けるどころか彼女をその傷みから救ってやることも出来ない。
耳を塞ぎたくなるような悲鳴に混ざって、時々「殺して」と哭く声が聞こえる。
 それが、生まれて来る子供に対しての言葉なのか、彼女自身に対する言葉なのか、自分と子供に世界が破滅するかのような苦痛を強いた彼に対する言葉なのか、彼にはもう分からなくなっていた。
気分の悪くなるような悲痛な不協和音で構成された悲鳴を聞きながら、彼は考える。
 自分には父親がいないはずだった。
物心ついたときから彼にとってはそれが普通のことで、母親も父親については何も言わなければ、彼自身も何も聞かなかった。
 気にならなかったかと言えば、それは多くの例外に漏れず嘘になるが、少なくとも日々の生活においては、聞く必要など無かったのだから。


「まだ、生まれていない?」


 唐突に振ってきたのは、彼女との結婚と妊娠を話してから、彼と眼を合わせなくなった母親の声だった。
 ゆらりと顔を上げる。
ライトに灯された母親の顔は、蒼白だった。
 沸き上がってくる憤りを押さえる事が出来ずに、彼は立ち上がり、実母の胸倉を掴んだ。


「何故!どうしてもっと早くに、言わなかったんです?!」


 殆ど叫ぶような彼の声に、母親は答えなかった。
掴み掛かって怒鳴る息子に対して、怯えた様子はなかった。
母親自身も、彼が何を指して言っているのかは、分かっているはずだ。


「どうして……。どうして貴女は……っ!」


 行き場の無い感情は、咄嗟に見つけたはけ口でさえ言葉が詰まってしまい、それ以上は声にならなかった。
それでも答えない母の首に、彼は紛れも無い殺意を抱いて指を絡ませる。
 どれ程の憤りを抱いても、今までは殺意など無かったのに、一度指を絡ませると、力が込められていくのを止めることはもう出来なかった。
 彼の母親は助けを求めようとも、弁解しようとする気も無い様子で、息子の好きにさせている。
ぎりぎりと狭まっていく気管では、満足に呼吸をすることも、言葉を返すこともままならなかったが、それでも彼の母親は、静かに笑って自身の命を脅かしている息子に答えた。


「どうして私があの人の後妻になれたと思うの?あの人の子供を産んだからよ。」


 それは、今までの何より説得力のある言葉だった。
 指から力が抜けて、彼はまた冷たい廊下に座り込んだ。
母親は一つ咳をしただけで、それ以上は何も言わない。
声も音も最小限に留めて、静かに呼吸を取り戻そうとしている。
 母親の言葉は、正しい、と。彼は同じくらい静かに自嘲して俯いた。
いくら現代が差別が無いといっても、義父は由緒正しき公爵家の末裔だ。
今も政治や経済に多大な影響を及ぼす力がある。
 一介の、しかも子連れの女が後妻に付けるような人ではなかったのだ。
どうしてそれに気付かなかったのだろう。


「何故、彼女に話したんですか?」
「話さなくてはいけなかったからよ。」


 彼が怨みも怒りも消え失せた無気力な眼で声を押し出せば、母親は非常な声を淡々と降り注いでくる。
もう、どうしたらいいのか、どうすればいいのか、何も分からなかった。
再び訪れた無気力に耐えかねて、彼は壁に背を預けながらずるずると床に身を寄せる。
座っていることすらわずらわしくなって、このまま横になって死んでしまいたくなった。


「貴方は、生まれて来なければ良かったと、思っている?自分を生んだ私を、恨んでいる?」


 彼のその様子を見て、同じように生気を失っていた母親が、ぽつりと吐き出した。
無造作に彼が視線を向ければ、彼の母親は一筋頬に軌道を描いた涙を拭うことも無く、無表情に悲鳴が漏れてくる扉を見つめていた。
 涙を流しているということにすら気づいていないこの女も、苦しいのだ、と。
唐突に彼は気づいた。


「――どうでしょうね。貴方が僕を生んだから、僕はエヴァと出会って愛し合うことが出来た。貴方が僕を生まなければ、エヴァは壊れることも無かった。」


 どちらが良かったかなんて、僕には分かりません、と。
彼は冷え切った床に預けていた体をゆるりと起き上がらせて、母親を見つめ返す。
もう、互いに交わす言葉など無かった。
 途切れることの無い明確な血の絆があっても、最早自分と相手の関係が歪な形に捩れてしまったことを、両者は理解していたから。
更に別の絶望が決定的な物に変わったところで、待ち望んでいた産声が上がった。
火が点いたように泣く新生児の声が、酷く頭に響く。
彼女の、自分自身とその分身を含めた、世界の総てを拒絶するかのような慟哭は、もう聞こえなかった。






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2008/10/13   再UP




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