Eyes on Me
Act.31 : In here being your body
保 護 区
息をきって走る。 燃え盛る屋敷を背中にして。 ピジョン・ブラッドの手を引いて、サファイアは出来る限りの早さで走りぬけた。 彼のもとを逃げ出すといった時、ピジョン・ブラッドはサファイアに逆らわなかった。 共に彼の元から逃げ出そうと、最低限の説明しかしなかったサファイアに対して、無言で頷いただけだった。 『ここを出たら、僕はきっと殺される。』 『そうだね。』 『君の身の安全も、保障は出来ない。』 『そうだね。』 『だけど僕といっしょに来て欲しい。』 『――いいよ。』 ピジョン・ブラッドが何を思ったのか、サファイアは知らない。 だけどサファイアは独りで逃げ出すわけにはいかなかったから。 「疲れた?」 しばらく走って、少し足を緩めて振り返る。 ピジョン・ブラッドの向こう側には、まだ燃えている屋敷が良く見えた。 「大丈夫。」 二人して息を切らしながら、ピジョン・ブラッドもサファイアの視線をたどる。 何を思うこともなく燃え上がる屋敷を見ているピジョン・ブラッドに、サファイアは謝罪の言葉を口にした。 「ごめんね。」 その言葉に、ピジョン・ブラッドが振り返る。 「何が?」と問い返す声も表情も、サファイアの口から零れた言葉を、初めて聞いた言葉のように、意味が分かっていないかのような、そんな様子で。 「君を博士から引き離して。」 サファイアの言葉に、ピジョン・ブラッドは一瞬何か言いたそうな視線を向けた。 だけどそれはすぐに押し込まれてしまって。 「僕が決めたことだから。」 ピジョン・ブラッドは鮮やかな色の眼を隠すように目を伏せて、呟く。 そうやって目を伏せてから、もう一度屋敷の方を見て、そしてまたサファイアを見たピジョン・ブラッドは、おもむろに口を開いた。 「ここで別れよう、サファイア。」 静かに放たれた言葉を、今度はサファイアが理解できなかった。 言い返そうとして、それより先にピジョン・ブラッドが言葉を続ける。 「聞いて。僕はサファイアが逃げようといった時、ずるいことを考えた。」 いつのも抑揚の無い口調のまま、表情だけをわずかに歪めて。 ずるいと自覚しているなら、どうしてそんなにも表情を歪めるのか。 「僕は僕と賭けをした。サファイアと逃げて、途中で別れる。その後で、彼が僕を追いかけて来てくれたら僕の勝ち。君を追いかけたら、僕の負け。」 サファイアには、ピジョン・ブラッドが言っていることが、うまく理解できない。 「ピジョン・ブラッド…」と、妹の名前を呼ぶのが精一杯だった。 酷く抗い難い感情に揉まれて、ピジョン・ブラッドは喘ぐように続ける。 「彼はサファイアがお気に入りなんだ。」 「違うっ!」 悲痛な声で呟いたピジョン・ブラッドに、サファイアは反射的に叫んでいた。 だって、それは本当のことだから。 「ピジョン。それは違う、断言できる。彼は君を手に入れる為にジザベルを殺して、アメジストを殺したんだ。アメジストはジザを殺そうとしたから。うまく眼が紅くならなかったローズを失敗作と言いきって、僕に殺させた。それなのに、僕が君より気に入られているなんて、そんなの、絶対に、有り得ない。」 心の底からそう思っていた。 彼はルビーを手に入れる為には、どんな事だってやってのけてきたのだから。 サファイアはそれを、最も近い場所から見ていたから。 だからサファイアは、それだけは断言出来るはずだったのに、ピジョン・ブラッドは静かに頭を振って否定した。 「違わないよ、サファイア。彼のお気に入りは『僕の眼』だけだった。一度だって『僕』を見ようとしなかった。だけど彼は、サファイアの言葉も、行動も、『サファイア』という生き物そのものが気に入ってたんだ。」 ピジョン・ブラッドの言葉に、サファイアは言い返すことが出来ない。 それでも、サファイアが見てきた世界では、彼にとって必要なのはピジョン・ブラッドだったのだから。 もう、誰の真実が自分達の世界なのか分からなくて、サファイアはうなだれたように弱い声を押し出した。 「僕は、君が生まれる前から博士のことを知ってる。あの人が、君一人を作り出すためにどれだけの執念を持っていたかも。それなのに、博士のお気に入りが君じゃなくて、僕だなんて、間違ってる。」 僕の世界では、確かにそれが事実だった。 だから、サファイアはそれ以外は知らないし、知りたくなかった。 だけど、ピジョン・ブラッドが見てきた世界では、彼にとって大事なのはサファイアだった。だから、ピジョン・ブラッドは頑なに自分の言葉を否定するサファイアを見て、ほんの少しだけ口元を弓なりにしならせた。 「サファイア。僕は、僕が生まれてからは一番近くで彼を見てきた。だから分かる。彼がいつも見ていたのは、サファイアだよ。それが違うと言うなら、ウォルフはサファイアの中で別の人を見ていたんだ。」 きっぱりと言い切るピジョン・ブラッドに、サファイアは喘ぐように息を吐き出した。 「それじゃあ、博士が見ていたのは、誰?」 「分からないよ。」 サファイアの凍りついた声にも、ピジョン・ブラッドは淡々と呟く。 それは確かに自分達が踏み込んではいけない、彼の世界の真実だから。 だからピジョン・ブラッドは、慎重に言葉を選ぶように、代わりに自分の世界の真実の一つを告げた。 「だけど、彼は紅眼を造りたかったんじゃない。僕は彼の作りたかったものの、副産物だったんだ。」 サファイアは今度こそ返す言葉を無くした。 自分たちのこの眼の色が、彼の求めていたものじゃないと言うのなら、自分たちは何のために作られたのだろうか。 誰のために作られたのだろうか。 それは、サファイアにとって、サファイアとピジョン・ブラッドにとって、自分たちの存在意義の総てを否定されることだ。 「――違う。彼は、確かに宝石の眼を作りたがっていたんだ。」 だからサファイアは、確かな根拠を持たないまま、今にも壊れて仕舞いそうな程に表情を歪めてそれを否定する。 言いながら、顔から、血の気が引くのが分かった。 それに関してはそれ以上何も言えず、同じように蒼白な表情で、ピジョン・ブラッドは、凍り付いた絶対零度の自嘲の微笑を浮かべる。 流れた鮮血を、黒く変色する前に氷の中に閉じ込めたような眼が、最高に綺麗だった。 「僕は狂っている、サファイア。君が酷く妬ましい。彼にとって一番大事なのは、僕じゃなかったから。僕はただのだったから。だから僕は、僕の為に、僕自身と賭けをしたんだ。」 眼に見える限りでは、ピジョン・ブラッドは淡々と語っていた。 だけどその心がとても脆い物に見えて、サファイアは怖くてしかたなかった。 彼がサファイアを追いかけてくることは無いと、それに関してはいくらでも断言が出来るけど、もし彼がピジョン・ブラッドのもとに行くのが遅れたら、彼女はきっと壊れてしまうだろうと、思ったから。 サファイアは締め付けられるくらい、ピジョン・ブラッドを行かせたくないと思ったけど、彼女の意志は固かった。 「ここで別れよう。僕は僕の賭けに勝たなくちゃいけない。」 酷く痛ましい言葉に、サファイアはそれ以上、ピジョン・ブラッドを留めることが出来ないことを悟った。 「君が勝ったら、どうするの?」 「新たな賭けをする。彼にとって大切なものが、『僕』なのか、『僕の眼』なのか。」 「君が賭けに負けたら。」 「僕は哀しくて、一秒だって呼吸が出来なくなるだろうね。」 力無く笑って、ピジョン・ブラッドはもう一度燃えている屋敷を見る。 今はもうその中にはいない、自分達にとって絶対的な神様を思って。 「もし二つ目の賭けで君が負けたら?」 「――僕は苦しくて、一秒だって呼吸が出来ないだろうね。」 「――僕は君が彼以外の何かのモノになって欲しかったな。」 「それは、無理。サファイアが、彼以外のモノになれないのと同じ事だよ。」 「――なんて、説得力のある言葉だろう……」 涙を零しながら微笑んで、サファイアは自分より背の高くなった妹を抱きしめた。 「気を付けて。彼は殺し屋を放った。黒髪のラピス・ラズリ…。」 うまく言葉が出てこない。 泣きたかったけど、涙が上手く出てこない。 綺麗な涙が出てこない。 溢れて来るのは、言葉にならなかった感情ばかりだ。 抱き着いたサファイアを優しく抱きしめて、ピジョン・ブラッドは告げた。 「さよなら、サファイア。」 「さよなら、ピジョン・ブラッド。君を守れなくてごめんね。」 憔悴しきった微笑が、サファイアに向けられる。 きつく抱きしめ合って、互いの滑らかなその頬にキスをして、サファイアとピジョン・ブラッドは別れた。 暗い夜空の下の、少し遠くの方で、サファイアが放った火が屋敷を飲み込む。 いく当ても無いまま逃げ出して、再会の予定も無く別れた。 きっと自分たちは地獄に落ちるだろう。 自ら神様の楽園を放棄した背信の子供達として。 この、残酷で醜悪で、不毛でどうしようもなく美しくて、そしてぬるま湯のような幸せの中に産み落としてくれた、神様を裏切った罪を背負って。 だけどサファイアは、こうする以外に方法を知らなかったから。 もう、この眼を開いてはいけない。 彼以外を映してはいけない。 それは自分たちが決めた、自分たちだけの禁忌 最後の最後まで、宝石箱の中から抜け出せない。 |
2008/09/22 再UP |