Eyes on Me
Act.30 : Here does not have the mind for you
保 護 区
遠くの方でパチパチと火の粉が飛び散る音が響いている。 それを聞きながら、真夜中にサファイアはもう一度彼の部屋に訪れた。 今度は呼ばれてではなくて、押し掛けだ。 「どうしたんだい?サファイア。」 今夜はちゃんとあかりを付けて、テーブルにティーセットを用意しながら本を読んでいた彼は、呼び出した記憶の無い来訪者を前に顔を上げる。 サファイアは立ったまま、応えた。 「狩りをしましょう。」 昨晩、彼に言われたのと同じ言葉を口にする。 「逃げ切れたら、僕の勝ちです。」 真っ正面から見据えて、彼に何か意見することは、最大限の反抗の証のはずだ。 今この瞬間にも、熱湯が満たされたティーポットを投げ付けられてもおかしくないくらいに。 だけど、ぱたんと音を立てて本を閉じた彼は、楽しそうに笑ってサファイアを見つめる。 サファイアは、吸い込まれそうな程に暗く堕ち切った眼から、逃げそうにがくがく震える足を踏ん張って、掠れそうになる声を押し出す。 「僕は今夜、ピジョン・ブラッドを連れて逃げます。館に火を放ちました。」 サファイアの言葉に、彼は怒ることも無く、ただ苦笑を浮べたまま。 「随分と大胆なことをするね。それに、僕のルビーも一緒に連れ出すのは、ちょっと困るなぁ。」 ソファから腰を上げて、彼がサファイアに近寄って来る。 頭から血の気が引くのが分かった。 彼はサファイアに目線を合わせて、顔に触れてくる。 「随分面白いことを考えたね、サファイア。」 にっこり笑った笑顔は、死神の笑顔だった。 今の彼は、死刑執行人も兼ねているけれど。 だけどサファイアは、ただ死刑の執行を待つわけにはいかない。 「貴方がそうさせるんです。僕にローズを殺させたように、今度は僕がピジョンを連れて逃げるように仕向けたんです。」 気を抜けば奥歯が音を立ててなるだろう。 それでもサファイアは彼の目を真っ正面からめねつけた。 「だから今夜、僕はピジョンを連れて逃げます。」 もう一度繰り返す。 決意を言葉にしなければ、それはすぐにでもなし崩しに溶けて消えていってしまうと思ったから。 「僕が狩られたら博士の勝ちです。だけど僕がピジョンを逃がすことが出来たら、その時は僕の勝ちです。」 「随分とおかしな狩りだね。僕がしたかった狩りはもうちょっと違うんだけどな。」 微笑んで、彼は言う。 愉快そうに、楽しそうに、サファイアをじりじりと追い詰めながら。 「負けることは、君の死を意味するよ。」 「分かってます。」 「君はピジョン・ブラッドの為にそうするのかい?」 「そうです。」 「じゃあ、あえて『君が死んだ後はピジョン・ブラッドがどうなるかは知らないよ』と言っておこう。」 彼の言葉に一瞬詰まってから、サファイアはゆっくりと息を吐いた。 「博士はピジョンを殺しません。お気に入りだから。」 確実とは言えなかったけど、それでもそれは、ある程度の確率を含んだ確かな事実だ。 サファイアは半分縋るような眼で彼を見た。 彼はいつもと同じ笑顔を向けるだけで、サファイアがひっそりと求めるような返事は返さない。 「サファイア。僕は君も気に入っていたよ。」 「嘘です。」 即答したサファイアに、彼は更に楽しげに笑う。 「本当だよ。この癖だらけの金髪も、深海の色をした眼も、何より君のそういう所が、僕は大好きだ。だから君のその狩りにのってあげよう。」 言いながら指先で頬を滑り、首筋に這わせる。 付けられたばかりの紅い印を見て微笑むと、彼はサファイアのくちびるに触れた。 頭がくらくらするような甘くて長いキス。 もしこのまま脳みそがとろけて死んでしまったら、きっと自分は、自分が生まれた水槽に戻されて、今度は人工羊水の代わりにホルマリン液に抱かれて永遠に眠るのだろうな、と。 サファイアは甘い誘惑のような予感を振り切る。 「君の決意に免じて、屋敷を出るまでは見逃してあげよう。その変わり、その後は君がどうなっても、ピジョンをどうしようと、知らないからね。」 サファイアを現実に呼び戻したのは、粉砂糖を奮うような甘い言葉。 涙が出そうだった。 「僕を含めて、君を綺麗な死体に変えたがっている奴はたくさんいる。」 零れはしなかったものの眼に溜まっていた涙を彼が舐め上げて、サファイアは眼を見開いた。 「さよなら、博士。」 「またね。サファイア。」 にっこりと笑った彼の顔は、綺麗な皮をかぶった獰猛な獣の笑顔だった。 狼 彼の正体は妖狼 |
2008/09/19 再UP |