Eyes on Me







Act.029 : Nobody's words arrive

 保 護 区 





 サファイアが眼を覚ました時、彼はもうこの部屋には居なかった。
眼が覚めてから、しばらくはっきりしない思考回路で天井を見詰める。
 ようやく体を起そうと身体に力を入れようとしたが、起き上がるという、それだけのことが酷く難儀に感じた。
想像以上にけだるい体を引き摺るように起して、ベッドから這いずり出る。
 立つことが出来ない。
一体、博士は僕の身体に何をしたんだろう、と。
サファイアは虚空に向かって呟いた。
 床を這うようにしてソファまで辿り着き、そこに脱ぎ捨てられたシャツをどうにか身に纏う。
だけどサファイアは、そこで力尽きてしまった。
 ソファに凭れて体を見る。
そこらじゅうに紅い印が刻まれていた。
 意図せずして、サファイアの疲れきった顔から笑みが漏れた。
 こんな印を付けなくても、自分は彼以外のモノにはなれないのに、と。
 カーテンの隙間からわずかな光が零れる。
紅く色ついた光で、それが夕暮れなのだと判断する。
どうやらサファイアは丸一日眠っていたらしい。
 ぼんやりと紅い光を見つめながら、それが自分には決して手の届かない物に思えて、悲しくて切なくて、また涙が零れそうになった。
 自分は、泣いてばかりいるな、と。
サファイアは自嘲の笑みを滲ませた。
自分の身に降り懸かったこの境遇を、例えば『運命』などと安っぽい名前を付けることも出来たなら、笑い飛ばすことも容易だったかもしれないのに。
だけど現実はとてもそんな風には考えられなかった。
 体が痛い。心が苦しい。
今にも息が詰まって死んでしまいそうなほどに、怖い。
 彼のいない部屋が、まるでこの世界にたった独りで取り残されような孤独感を思わせて、酷く哀しかった。
どうにか涙を飲み込んで、行き場の無い、意味さえも分からない感情を宥める為に、サファイアは懸命に笑おうとする。
 楽しいことも嬉しいことも、何一つ知らないのに、一度笑い出すと、もう止まらなかった。


「ねぇ、ローズ。僕はどうしたらいいんだろう。」


 もう、身体中の水分など、出し切って干上がっていると思っていたのに、名前を呼べばサファイアの眼からはまだ水分が流れ出す。
だけど、まるで世界の終わりが来たかのようにけたけたと笑い続けるサファイアは、それには気付かなかった。


「エメラルド。僕は君と何を約束したんだっけ?あぁ、ジザベル。君の言ったことは、本当に正しい。だけど、僕に、一体何が出来たって言うの?」


 悲しくて、可笑しくて、切なくて、楽しくて。
そう思い込もうとしながら、サファイアは笑い続けた。
明白に色分けた感情など、知る由も無いのに。


「サファイア?」


 それを遮ったのは、もう一人のサファイアの大切な妹。
ピジョン・ブラッドは彼のもうひとつの部屋から顔を覗かせていた。
続き部屋になっている扉が半分ばかり開かれて、ピジョンの姿を映している。


「ピジョン・ブラッド。」


 サファイアは愛しさと安堵と、少しの絶望を込めて、その名前を呼び、救いを求めるように手を伸ばす。
狂ってしまうことは、簡単だ。
だけどそのためには、総てを捨てなくてはならない。
自分が持っている総てを切り離すことは簡単だったが、サファイアにはピジョン・ブラッドを切り離して捨てることなど出来なかった。
ピジョン・ブラッドは動けない兄の思考を読み取ったのか、サファイアの求めに応じてそばまで近寄ってきた。
サファイアと似たりよったりの格好で伸ばされた手は、サファイアと同じ冷たさだった。
 どうして自分達の腕はこんなに冷たいのだろう。
彼士の腕はあんなに暖かかったのに、と。


「どうして泣いてる?」


 普段から余り感情を見せない声が、サファイアの癖だらけの金髪に降り懸かる。


「泣いてる?僕が?」


 言われて初めて、サファイアは自分の頬に手を当てた。
濡れている。
 自分は笑っているはずだったのに、どうして涙が零れているのか、サファイアには分からなかった。
もう、分からないことばかりだ。
否、最初から何一つ分からないことだらけなのかもしれない。


「まいったなぁ。」


 掠れる声で呟いて、ソファに凭れたまま、小さく身を固める。
 自覚なんて無かった。
サファイアは、泣いてなんかいないはずだったのだ。
ピジョン・ブラッドの視線を受けて、もう一度笑おうとしたけれど、上手くいかなかった。
 きつく閉じた眼から幾筋も涙が零れる。
もう何も考えたくなかった。


「ピジョン……」


 もう一度名前を呼ぶと、ピジョン・ブラッドは無言でサファイアを抱きしめてくる。
それに縋るようにサファイアも腕を伸ばして、ピジョン・ブラッドを抱きしめる。


「僕たち、二人だけになっちゃったね。」


ひとしきり泣いて、座り込んでピジョン・ブラッドを抱きしめたまま、サファイアはぽつりと呟いた。


「まだ、サファイアと僕が残ってる。」


 ピジョン・ブラッドの抑揚の無い声はそう答えたが、それが気休めにもならない事は、ピジョン・ブラッドもサファイアも知っていた。
サファイアのふわふわの金髪に、ピジョン・ブラッドのさらさらの銀髪が零れ落ちる。
光も射さない深海の色をしたサファイアの眼と、流れ落ちたばかりの鮮血の色をしたピジョン・ブラッドの眼が、視線をぶつける。
自分とは完全に対を成すように、何もかも正反対なピジョン・ブラッドを、サファイア愛しさを込めて抱きしめる。
だけど、何か暖かくて愛しい感情に、安らぎを感じたのは一瞬だけだった。
 抱きしめたピジョン・ブラッドの首筋にサファイアは自分と同じ印を見つけて、呼吸が止まったような衝撃を受けた。
 唐突にピジョン・ブラッドの肩を掴んで離れていったサファイアに、彼女は大して驚いた様子も無いままで問い掛けた。


「何?」


 それは、サファイアの方こそ聞きたい質問だった。


「それは、何?」


 見る間に青褪めていったサファイアに、ピジョン・ブラッドは怪訝そうな視線を送る。
言葉に出せず、サファイアは自分の首についている紅い印に触れて、無言でピジョン・ブラッドに問い直した。
 その声の無い質問に気付いたピジョン・ブラッドは、何ともないような口調で淡々と応えた。


「サファイアと、同じ理由だよ。ウォルフが付けた。」


 滅多に感情を示さないピジョン・ブラッドは、この時も淡々と応えただけだった。
だけどそれは、サファイアにとっては何より大きな衝撃となって、その精神を揺さ振る。
 空が落ちてこないのが、不思議な程の衝撃だった。


「どうして……」


 喘ぐように、サファイアが言葉を紡ぐ。
だけどピジョン・ブラッドは、サファイアのその反応こそが理解出来ないとでも言うように答える。


「サファイアは始めてだったの?僕にはもう、随分前からこれがついてる。」


 一瞬、本当に一瞬だけ自嘲のような笑みを見せて、ピジョン・ブラッドは自分の首に触れた。
 ローズ・クォーツに続いて、ピジョン・ブラッドまで、と。
種類こそ違えど、立て続けの衝撃に、サファイアは今度こそ本当に思考回路が停止するかと思った。
ぐらりと倒れかけた体を支えた手は、きっと反射的に出た物だったから。


「サファイア」


 何か言葉を求めるような口調で、ピジョン・ブラッドがサファイアを見る。
それは、まるでサファイアに許しをこうかのような、それで。
 自分は、何を言えばいいのだろう、と。
わずかに残った意識ではそう思ったが、それより先に口が叫んでいた。


「どうして!どうしてそんなっ……!」


 サファイアそこまで言うのが精一杯だった。
それ以上は、声が咽喉に張り付いて言葉にならななったから。
 自分でも説明できない、どうにもやるせない感情が波のように押し寄せて、サファイアを脅かしに来る。
これで何もかも、自分の救いが無くなってしまった気がした。
 肺に残った酸素を押し出すように、うめく。


「僕は、君も守れなかったの?」


 その言葉は、否定して欲しかった。
現実でなければ夢でも幻でも、なんでもよかった。
なのにピジョン・ブラッドは、残酷にもゆるゆると首を振るばかりで。
結局誰も守れない自分が、酷く無力に思えて、サファイアは床に崩れ落ちた。
 サファイアの視線の先で、ピジョン・ブラッドはもう一度一瞬だけ、薄く微笑みを浮かべて見せる。


「サファイアに拒否できない物が、僕に拒否できるはずが無いじゃないか。」


 最高に綺麗で、最高に切ない微笑だった。
 滅多に見せないピジョン・ブラッドの微笑みを、こんな形で見たくなかったと。
 見つめていた微笑が見る間に涙で歪んでいく。
もう何度目になるか分からない涙を落として、サファイアは再びピジョン・ブラッドを抱きしめた。
 もう、自分を追い越して成長してしまった妹に、結局は慰められたのかもしれない。






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2008/09/15   再UP




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