Eyes on Me







Act.28 : I do not notice it even if I call a name

 保 護 区 





 彼の部屋はいつでも薄暗い。
贅を尽くした年代モノのアンティーク家具も、半分は使われていない。
部屋に僅かに燈された薄い光は、出口に手が届きそうなのに抜け出せない、そんな絶望感を掻き立てる。
 サファイアは扉を押して中に入り、音を立てずに閉めた。
それ以上部屋の中に入れず、扉に背中を預けて俯いていると、薄暗い部屋の奥の天蓋付きの大きなベッドの中から、彼は来訪者の名前を呼んだ。


「サファイア。いつまでそこにいるつもりだい?」


 サファイアは答えない。
酷く憎んでいるはずのその声に、答えてしまったら二度と彼に罪を問うことは出来ないと思った。


「サファイア?」


 声が鼓膜を叩いて、彼がベッドから降り、サファイアの方に近寄ってくる。
サファイアがわずかに顔を上げると、彼の顔は歪んでいた。
サファイアが、泣いている所為だった。
 彼の大きな手がサファイアに触れる。
顔に、髪に、身体に。
 優しいキスの雨が降る。
頬に、眼に、唇に。
よけいに涙が止まらなくて、サファイアは彼を押し戻そうと手を出したが、出来なかった。
 手はサファイアの言うことを聴かずに、彼に縋る。
不意に抱き着いたサファイアの背中を撫でながら、彼はごく穏やかに聴いた。


「ローズ・クォーツが死んだのは、そんなに悲しい?」


 優しく抱きしめた手を緩めて、彼はサファイアを見る。
 サファイアは溢れる涙を堪えることが出来ずに、歪んだ視界のままで彼を見やった。


「君が泣く理由が分からないな。」


 首を傾げて彼は呟く。
立ち尽したまま泣き続けているサファイアを抱き上げて、彼はそのままベッドに向かった。
降ろされたベッドは優しすぎるくらいに優しい感触でサファイアを迎え、サファイアよけいに涙が止まらなかった。


「サファイア。黙ってちゃ分からないよ。君は僕を責めたいんだろう?」


 意地悪な質問を、優しい笑顔のオブラートで包んで、彼はサファイアに顔を近づける。
問い掛けという形式に則った、断定。
彼はサファイアがいかなる言葉で答えようとも揺るがない。
何て、楽しそうな微笑み。


「どうして、ジザベルを殺したの?」


 鳴咽の混ざった声に、一瞬だけ眼を見開いてから彼は再び微笑んだ。


「愛しているからだよ。」


 サファイアの顔を両の手で包んで、優しい狂気で満たされた視線がぶつかる。
近づいて来る恐怖に思わず目を閉じると、瞳に溜まった涙がまた零れ落ちた。
 彼がそれを拭って、サファイアの眼に唇を触れさせる。


「博士は、どうして、僕にこんな事をさせるの?」


 サファイアは咽喉の奥に詰まった言葉を押し出すように息を吐く。
まだ、眼は開けられなかった。


「こんなこと?」
「どうして、ローズを殺させたの?」


 これだけのことを言うのが、どれだけサファイアにとって勇気のいることなのか、彼はきっと知っているはずだ。
知っているから、こうして見えない手で支配権を主張する。
 また、サファイアの頬に唇を寄せて、彼は緩やかに微笑んで答えた。


「君がローズ・クォーツとピジョン・ブラッドを守ろうと必死になっているからだよ。」


 半ば予想していた答えが返ってくる。
サファイアのきつく閉じられたままの眼から、また涙が溢れた。
 今、自分の眼の前にいる人間は、そういう人だ、と。
サファイアは唐突に思い知った。
今までだって同じことを思っていたけれど、今回ばかりはその重さも今までの比ではなかった。
 何もかも壊してしまう。
サファイアのことも、きっと自分のことも。
だって彼に取って、壊すことと守ることは、同じ意味だから。


「酷い人ですね。」


 サファイアはまた新しい一滴の涙と共にそう言ったが、それ以上の言葉で彼を責めることは出来なかった。
眼を閉じていたから彼の表情は分からなかったけど、きっと彼はいつも通り笑っていたと思う。
あくまで優しい口調で、彼はサファイアに問い掛けた。


「僕が許せないかい?」


 サファイアは首を振って答える。
許すとか赦さないとか、そんな時限の問題では片付けられなかったから。


「僕が憎いかい?」


 サファイアは首だけを振って答える。
憎しみと哀しみと愛しさの違いが、もう分からなかったから。


「君は、本当に可愛いね。」


 そう言って今度は、彼はサファイアの唇にキスをする。
ようやく閉じていた眼を開けて、サファイアは間近に迫った彼の眼を見て答えた。
吸い込まれそうな程の、綺麗で純粋な闇を、真正面から見ることが、不思議とその時だけは躊躇わなかった。


「博士は本当に酷い人ですね。僕が否定できないって分かってるくせに、そんな事ばっかり聞いて。」


 サファイアの言葉に微笑んで、彼はまだ止まらない子供の涙を舌先で掬った。


「僕は、博士が怖い。だけど、そうやって僕に優しくするから、僕は逃げられない。貴方は僕の守りたかった物をみんな壊してしまう酷い人なのに、僕には博士を憎む権利さえ無い。」


 言葉が震えていた。
 サファイアの言葉に彼が機嫌を損ねれば、サファイアはすぐにでもローズ・クォーツと同じ末路をたどる。
だけど今、彼の前で何もかもぶちまけられるなら、このまま死んでもいいと、本気で思った。
彼の手にかかって死ねるなら、それは幸せなことだとすら、思った。
だけどサファイアが知っている限り、彼は死にたがっている人を殺してくれるほど、親切ではない。
それに、自分という防波堤が無くなってしまったら、もう一人の妹のピジョン・ブラッドが、彼の総てを一身に受けることになるのだ。
憎しみも、愛しみも、総て。


「どうして僕を憎むことも、僕から逃げることも出来ないと思う?」


 優しくサファイアの咽喉に手を絡ませながら、彼はいかにも答えの分かっている質問をした。
サファイアがどう答えるか、彼はよく知っている。
 今、それ以外の答えを口にすれば、彼はなんの躊躇いも無くサファイアの咽喉に絡ませた指に力を入れるだろう。
 否定することは簡単なはずなのに、サファイアにはそれ以外の答えを知らなかった。


「僕が、貴方のモノだから。」


 サファイアの答えに満足げに微笑んで、彼はそのままサファイアをベッドの上に仰向けに倒した。


「いい子だね、サファイア。」


 にっこりと、綺麗な微笑みが仰向けになったサファイアに向けられる。
上から覗き込むようにして、彼はまた、サファイアの顔に唇を這わせた。


「僕は、君が大好きだよ。」


 首や耳に舌を這わせながら、彼は続ける。
睦言を繰り返すように。
何処か、自分に言い聞かせるような口調で。


「そうやって、僕から逃げようと必死なのに、何処にも逃げられない。全身で僕を怖がっているのに、最後には僕の腕の中に戻ってくる。そんな君が大好きだよ。」


 サファイアは無言のままで天井を仰ぎ見ていた。
 彼の言うことは正しい。
何処もおかしくないし、何も間違っていない。
だからサファイアの身体は逆らうことを忘れて彼に身を委ねようとする。
ざわつく心を置き去りにして。


「だって、僕たちは博士の為に生まれたから。博士が僕の神様で、法律で、裁判官で、死刑執行人だから。僕たちは博士の手から離れたら、生きていけないから。」


 うめくように言いながら、サファイアは自分の体に被さっている彼の背中に両腕を回した。


 この腕の中だけが僕たちの世界。
この人だけが僕たちの生きる意味。
こんなにも逃げ出したいのに、こんなにも恐怖におかされているのに、傍にいなければきっと、寂しくて淋しくて、呼吸すらも出来ない。


 苦しくて苦しくて、サファイアの眼からはまた涙が溢れた。
 間違っていないはずが無い。
置き去りにされた心が正しいことを、サファイアは理解していた。
このままこの人の傍にいたら、確実なのは死神の愛撫だけということを。
 頬を濡らした涙が、ざらついた感触に舐め上げられる。
顔にかかった髪が、なれた手つきで退けられていく。
体を這い回る大きな手に、意志とは関係ない場所から放たれた声が漏れる。
 だけどサファイアは、何処か第三者のような視点で、思った。


『僕は狂っていたんだ。』


 彼と同じ様に。
 気力も体力も失せた体を彼に任せて、サファイアの意識は絶望の波に飲み込まれた。


「サファイア。狩りをしようか?」


 どこか遠くで彼の声を聴く。
 涙で歪んだ視界には、彼の歪んだ笑顔しか見えなかった。


「君は逃げる。僕は追う。逃げ切れれば君の勝ち。捕まれば僕の勝ち。」


 ごく近くで吐息を感じながら、薄く眼を伏せる。
意味を持つ声は出せなかった。
神経を凍らせるような嫌悪感と、それを飲み込むくらいに強烈な快楽が交互に押し寄せて、サファイアの思考回路を遮断していく。
 その感覚からも、彼の腕からも、サファイアは逃げ出せなかった。
 彼はベッドに放り出されたサファイアの身体を抱き起こして、その蒼い眼を開けさせる。


「狩りをしようか、サファイア。」


 その視界に、見たことも無いような蒼い眼に自分が映っていることを確認してから、彼はもう一度同じことを繰り返した。


「僕が、逃げられないと、知っているのに?」


 サファイアは酸欠になりそうな程に不規則になった呼吸の合間を縫うように、答えた。
押し出した声は酷く掠れている。
 彼はくすりと一つ笑って、サファイアを抱きしめた。


「やっぱり、君のそういう所が大好きだよ。」
「いやだぁ!」


 最後まで聞く前に、サファイアの細い咽喉から悲鳴に近い声が飛び出した。
楽しそうな声に比例して激しくなっていく行為に、サファイアはもうついていけない。
 閃光ばかりの視界と、薄れる意識の中で、サファイアの脳裏に浮かんだのはジザベルの声だった。
 ジザベルが死ぬ前に言った言葉は、彼の言葉よりも正しかった。
 サファイアは、自分がもっと早くに逃げ出さなければいけなかったのだ。
彼無しでも生きていけるうちに、この手からローズ・クォーツとピジョン・ブラッドを連れ出さなければいけなかった。






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2008/09/12   再UP




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