Eyes on Me







Act.21 : Hallelujah

 解 放 区 





 無断で入っては行けないよ、と。
繰り返し言い聞かされた部屋の中の手術台の上で、ジザベルはぼんやりと天井を見上げる。
意識も同じ様にぼんやりしているのは、きっと貧血気味の所為だろうと適当なことを考える。
きっとこれから、彼女の身体の中からはもっと多くの血液が出ていくのだろう。
人間は体に流れる血液の三分の一を失えば死ぬという。
もうすでに五分の一くらいは失っているだろうから、これから帝王切開なんてすれば、自分は完全に失血死を迎えるわけだ。
ジザベルは漠然とした思考回路の中で、彼が延命輸血用の血液を用意しているという可能性にを見出すことが、出来なかったから。


「ジザ、大丈夫?」


 不意に横から声が聞こえて、ゆるゆると視線を動かしてみれば、青褪めた顔のサファイアがジザベルの顔を熱く絞ったタオルで拭いてくれていた。
 無責任に「大丈夫」と答えるのも、ありのままの現状とこれから起こることを組み合せて「もう死ぬから」と答えるのも憚られたので、ジザベルは曖昧に表情を変えただけだった。


「終ったら、ルビーと、それからローズ・クォーツにも会えるんだね。」


 私とは、もう会えないでしょうけれどね、と。
ジザベルの笑みは少しだけ自虐的なものに変わっていたかもしれない。
だけど不思議と、彼が自分を見殺しにするわけが無いとは、思えなかったから。
彼がジザベルを殺す可能性については無限大に広がっているのに、自分を助けてくれるはず、なんて、そんな可能性については微塵も思い当たらなかったから。
 それは、目の前にエメラルドの死体が転がっていたのに微塵の動揺も見せず、少しの躊躇いも無くアメジストを撃ち殺した現場を見た直後だったからかもしれないけれど。
 同じ様に、二人の死を見てしまった後だからこそ、サファイアは命の誕生を望まずにはいられないのかもしれない。
それが、また一つ別の命を奪う結果になるだなんて、この小さな子供には考えられないのだろう、と。
 ジザベルは酷く穏やかな気分で考えた。


「エメラルドと約束したのに、僕は守れなかった。」


 ゆるゆると、力無く微笑むジザベルの笑みに、まるで耐えられなくなったような様子で、唐突にサファイアは透明な涙を零した。
ジザベルはそれを、彼が気に入っているその眼に劣らぬ程に綺麗で、圧倒的な存在感を孕んでいると思う。


「だから、ジザは守るから。ルビーもローズ・クォーツも、僕がきっと守るから。」


 自分は、仮にもこの子供たちの母親という立場にいるのだから、と。
ジザベルはサファイアを慰めなければいけないと思ったはずなのに、それでも感情と思考の半分は、その綺麗な涙を見ていたいと感じた。
 だからこそ彼女は、今まで思ったことも無いことを、口にしたのかもしれない。


「彼が私を手術している間に、外へ逃げなさい。」


 その言葉に、一瞬サファイアの表情が驚愕に固まったのは、無理も無いことだ。
ジザベルが綺麗だと思ったその涙さえもが止まるくらいに、サファイアは硬直した。
自分だって他人の口から同じ言葉を聞いたら、同じように驚くだろう。
それだけの自覚と、重みを伴った言葉であったから。
 否、それだけの自覚と、重みを伴った言葉であったけど。
だからジザベルはサファイアに言わなければいけなかったのだ。


「貴方は、彼から逃げなくては駄目。ここにいてはいけないわ。」


 ジザベルは微笑んでいたかもしれないし、泣いていたかもしれない。
もっと早くに気づいていれば。
気づいて、それを行動に移すだけの勇気が自分にあったなら。
 そしたらジザベルは、せめてサファイアと生まれてくる前に名前を定められた胎児を抱えて逃げ出すことも出来たかも知れないのに。
 たとえそれが、今以上に生き残る可能性が無いに等しいものだったとしても。
だが、そんなジザベルの想いは、サファイアには上手く届かなかった。


「――ジザ……僕はもう要らないの?」


 掠れた声で呟く彼に、ジザベルは「そうじゃない」と言ってあげたかったけど、答えを返す猶予はもう無かった。
サファイアの背後に、彼が近づいて来るのが見えたから。
彼にこの会話を聞かれたら、ジザベルはおろか、サファイアまでが背反になる。
彼は神様なのだから。
 何か言おうとしたサファイアを視線だけで止めて、ジザベルはその後ろの人影に視線を送った。
それにつられて、サファイアが後ろを向く。
 二人の視線を受けた、二人にとっての神は、ゆるりと微笑んでいる。


「手術を、始めるよ。サファイア、君は部屋の外で待っていなさい。」
「――はい。」


 白衣と、マスクと、ゴム手袋をつけた彼は、サファイアのクシャクシャの髪に手を振れて嗤う。
零れ落ちた涙を拭いながら、サファイアは彼の神様に従順な答えを返した。
 その背を見送って、ぱたんと静かに閉まる扉の音を聞いてから、彼はジザベルに向かって言う。
 局部麻酔を注入した、注射器の具合を探りながら。


「愛してるよ、ジザベル。」
「嘘吐き。」


 ジザベルは自分自身の死刑執行人に向かって、最初で最後の宣戦布告を言い渡した。
彼は楽しそうに笑っていたし、ジザベルもきっと笑っていたのだろう。
 彼は微笑んだまま麻酔の針を打ち込み、そしてそれが効きだすのを待ちきれないとでも言うかのように、ジザベルの体にメスを滑り込ませる。
痛みで暴れだしたらどうするのだと、ジザベルは苦笑めいた表情を浮かべたが、彼はそれすらも気づいていないようだ。
ただ、追い求めるかのように。
 プレゼントを渡された子供が、夢中になってリボンと包装を掻き毟るように、彼は急いた様子でジザベルの胎内に侵入していく。
術部を隠そうともしなかったので、ジザベルは視線をそこに向けた。
 最初に線が入り、次に肉が割れて、一瞬白い脂肪が見えたかと思えば、更に一瞬後には紅い血液が溢れ出した。
そこまでで、ジザベルはそれ以上自分が死んでいく過程を見るのを止めた。
仰向けの体勢で、麻酔が効いた体で首を動かすことが、思った以上に疲れたからだ。


「見なくていいのかい?ジザ。」
「もう、疲れました。」


 そっけないジザベルの応対に、彼は苦笑を浮べた。
寸分の狂いも無く、作業を続ける手を止める様子も見せないまま、彼はジザベルに話しかける。


「君は嘘だと断言するけど、僕は僕なりに君を愛していたんだよ。」
「嘘です。貴方は誰も愛してはいない。私も、貴方を愛してなんか、いない。」
「それなら何故、君は僕のルビーを生むことを受け入れたんだい?」
「さぁ。そのときは、愛していたのかもしれませんね。」


 愛していたけど、愛してない。愛されていたけど、愛されてなんか、なかった。
 頭の中で思うことは沢山あったが、ジザベルはもはや話すことにさえ疲労を感じ、結局口をついて零れたのは、たったそれだけだった。
その短い言葉ですすら、自分自身が死ぬと明白に分かるまで、言えなかったのだけれど。
それ程までに大きな存在だった彼が、今はそこまで驚異的だとは思えないことに、ジザベルは少し失望していた。
 どうせなら、最後まで絶対的な存在でいればよかったのだ。
そうすれば、ジザベルはその絶対的な存在に支配されたまま、彼のものでいられたのだろう。
 ジザベルの言葉に、彼は薄く微笑んだ。


「そうか。本当に君達は、同じ事ばかり言うんだな。」


 楽しそうに。次第に声まで上げて笑う彼を、ジザベルは訝しげに見つめる。
本当は、もうそんな表情さえ作ることも、疲れきっていたのだけれど。
一体なんなのだ、と。ジザベルのあからさまな視線に気づいたらしい彼は、彼女の腹を切り刻んでいた手をいったん止めて、ジザベルの顔の方へ近づいてきた。
 血で染まった薄いゴム手袋を取り、彼女の顔に触れる。


「君の母親も、同じことを言った。」
「母親?」
「そう。君を生んだ為に狂って死んだ、ホルマリン漬けのエヴァ。僕も若かったからね、大した知識も持たないで、手っ取り早く近親相姦すれば、綺麗な眼が生まれると思ったのさ。だけど結果はこんな真っ黒な眼だった。遺伝子は優性の法則に忠実に従ったってわけ。」


 そう言って彼は唐突にジザベルの眼に触れ、無造作に力を込めた。
そして、ずるりという音と共に、いとも簡単にそれを抉り出す。
 局部麻酔しか掛けていないはずなのに、どうして痛みを感じないのだろう、と。
一瞬で隻眼になったジザベルは、的外れなことを考えた。
無論、痛みなど感じないに越したことはないし、不幸中の幸いといえば、それまでなのかもしれないが。
 溢れ出した血液が顔を這い回る不快感は拭えなかったが、それも長くは続かないだろう。
失血と、もしかしたら麻酔のせいもあって、そろそろ朦朧としてきた頭の中では、もう理論立てて物事を考えることが出来なくなっていた。
 だけど、それでもジザベルは考える。彼の、言葉の意味を。
 彼の眼は蒼で、エヴァの瞳はサファイアと同じ綺麗な蒼で、ジザベルの眼は黒であるはずなのに。
彼は近親相姦をしていて、エヴァは強姦されて身ごもった子供を産んで、狂死して。
自分の母親はホルマリン漬けのエヴァで。それなら、この黒い眼(ブラックパール)は…。


「まだ分からないかな?世の中にはカラーコンタクトという物があるだろう?」


 彼の声が耳に届き、ジザベルは残った方の眼で覗き込んできた彼の眼の色を見た。
ジザベルと同じ、黒真珠(ブラックパール)
暗くて黒いのに、光の当たり方によって異なる輝きを見せる、闇の色。
 でも、今更驚くべきことではなかった。
今から死んでいくジザベルに、出生の秘密など知ったところで意味が無いし、別に母親や父親の名前を知りたかったわけでもない。
 静かに目を閉じたジザベルに、彼は優しいキスを落とした。


「だけどそんなことは関係ない。僕は確かに君を愛していたよ。」


 甘美だと思ったのは一瞬だけだった。
最後のキスは鉄の味がしたし、彼はすぐに離れていった。
 その直後に、嬉々として彼が裂かれたジザベルの腹に、彼が手を突っ込むのが分かった。
麻酔をしていても大きな衝撃は鈍い感覚で分かる。
 あぁ、生まれるんだ、と。
思った瞬間、ジザベルの残った方の黒い瞳から涙が溢れた。同時に、今までわずかにともしていた生の輝きも、一緒に零れていく。
 ぽたりと、頬を伝えきる前に、ジザベルはごく短く、祈った。
――神様、どうかジザベルの子供達が、彼から逃れられますように、と。
 彼以外の神様なんて、ジザベルは一人も知らなかったけれど……。






<<  Return  | Menu |  Next  >>



2008/08/18   再UP




Copyright (C) 2008 Good-bye, Dear My Little Lover Some Rights Reserved.





 
inserted by FC2 system