Eyes on Me
Act.08 : Because you can live
禁 猟 区
その日は宿には戻らなかった。 正確には、戻れなかった、という方が正しいのかもしれないが、壁に囲まれた部屋で危険すぎる迎えを待つ気にはなれなかった。 どうせ壁が防御にならない相手なら、周囲が見通せるほうがいい。 ただ二人、座り込んだままで、どんよりと垂れ込めた雲の下を夜明けが来るのを待つ。 眠れそうには、なかった。 「貴方は、何も聞かないね。」 「他人の過去なんて、どうでもいいことだろう?」 時折、沈黙の中でピジョン・ブラッドがポツリと呟く。 男はポケットを探り、取り出した煙草の箱を覗いて、最後の一本を見て静かに眉をひそめた。 そして無言で煙草に火をつければ、小さな炎の向こうに浮かんだ顔は、緊張のせいか少し紅く見えた。 煙草から逃げ出す煙が、引き摺られるように夜空に溶け込んでいく。 「静かだな。」 「もうすぐうるさくなるよ。彼が来るから。」 雲の向こうの、月があるはずの夜空に手を伸ばして、子供は身震いをした。 それが恐怖ではなく、単純に晒した肌を滑る空気の冷たさによるものであると言うことは、子供の顔を見れば解る。 無表情の顔の中で口だけが動き、無感動な声だけが響いていた。 それでも、男のコートの中に収まった小さな鼓動だけが、少しだけ早くなったのを感じる。 「君と彼と、どちらが僕を殺すんだろうね。」 数日前の腹の傷に手を当てて、子供は夜目にも鮮やかな鮮血色の眼を伏せる。 抑えた傷口からは、じわじわとその眼と同じ色の液体が滲み出していて。 「そんなに死にたいのか?」 「死ぬのはあんまり、好きじゃないな。」 「なら、どうして殺されると決め付ける?」 「逃げ切れないから。君からも、彼からも。」 問えば、子供は淡々と応え、そして初めて、乾いた声で笑った。 彼に背を預けた状態であるから、顔は見えなかったけれど。 だけどきっと、声と同じように乾いた笑みを浮かべているのだろう。 「僕は彼のものだから。体も心も細胞の一つも残さず。この眼が紅いのも彼のためだよ。」 それが当然のことであって、それ以外の理由など何一つ無いという口調で、子供は独り言を言うように続けた。 そして、ゆるりと男の方に振り返り、黒真珠色の彼の眼を見据える。 真っ向から。 「そして僕は彼のものだけど、彼は僕のものにはならない。」 「自分の物にしたかったのか?」 「なくしたくは、無いな。」 「逃げ出した理由は?」 「彼が僕の為に動いてくれるから。僕だけの為に動いてくれるから。連れて行ってくれるから。」 「どこへ?」 「どこかへ。」 無表情とは、時に何にも勝る鎧になるのかもしれない。 乾いた笑みはすぐに消えて、また子供が男に背を向けるころには、子供の顔から表情は消え去っていた。 腕の中で鼓動が不規則に揺らめくのを聞きながら、感情が無いわけではないのだと、男は思う。 それでも、子供の声にはもうなんの抑揚も無かった。 「どこかへ行きたいだけなら、俺が連れて行ってやる。」 自分でも驚く言葉だった。 それでも、息が詰まるほどに強く抱きしめて、そのまま誰にも渡したくなかった。 男の中に生まれたそれは、恋愛なんて可愛い感情ではなく、言葉に出来ないような感情がぶつかり合って出来た、全く初めての気分だった。 きっと子供が男に対してそれに応えようとした感情などを見せたら、一瞬で覚めてしまうような、そんな際どい感覚。 どれほどそうしていたのだろう? 時間の感覚は無かったが、きっと短い時間だったに違いない。 しばらくして、子供は相変わらずの無機質な声で呟いた。 「もう、遅いよ。彼は僕を殺す。僕は逃げられない。」 子供の声が、わずかに震えたような気がした。 もう一度、ゆるく体勢を変えた子供は、どこか縋るように揺れた光をともした眼で、男を見つめて呟く。 そして、最後に縋ったその糸さえもを、思い直して手放すように、男の肩に額を当てて、掠れる声を漏らした。 「彼が、来た。」 |
2008/07/15 再UP |