Eyes on Me
Act.51 : If I sleep at the place that does not arrive...
解 禁 区
「迎えに来たよ。ピジョン・ブラッド。」 どれほど、自分はその声を望んでいただろう、と。 この瞬間を待ち望んでいたピジョン・ブラッドは、熱い何が胸を焼いていくのを実感した。 それが『涙』という形を取って視覚化されるのをどうにか堪えて、ピジョン・ブラッドは静かに顔を擡げる。 「帰ろう。僕から逃げきれるとは、思っていないだろう?」 顔を上げて見上げた『彼』の顔は、ピジョン・ブラッドが逃げ出した時と同じ、穏やかな笑顔だった。 「そうして連れ帰って、また僕を飾っておくの?」 その言葉を待ち望んでいたというのに。この瞬間を切望していたというのに。 意思に反して答えたのは、枯れた声だった。 ピジョン・ブラッドは、自分の言葉を否定してくれることを願う。 「君は僕が造りだした眼(宝石)の中でも、最高級品だからね。他人にやりたくはないな。」 含むような声は、ウォルフに向けれられたのだったのかもしれない。 『彼』の感覚で言うならば、ピジョン・ブラッドは宝石であり、人間でないそれは、所有者のモノであるべき存在なのだ。 「分かるだろう?僕は君を失いたくないから、殺さないように追いかけた。」 面白そうに笑いながら、『彼』は続ける。 だから先程も、ラピス・ラズリがピジョン・ブラッドを殺そうとした時に、止めたのだろうか。 だが、そんなことはもう、今更ピジョン・ブラッドにはどうでも良かった。 『彼』が、自分の目の前に居る。 そしてピジョン・ブラッド自身はまだ、生きている。 それだけの事実があるから、ピジョン・ブラッドは今『彼』に聞くことが出来る。 「――僕は、僕と賭けをしたんです。」 顔に触れようと『彼』が伸ばしてきた手から逃げるように、ピジョン・ブラッドはウォルフに支えられたままみじろきした。 「――貴方は、この眼が無くても僕を迎えに来てくれた?」 『彼』を前にして、自分が冷静でいられるとは思っていなかった。 その答えが、否定の言葉しか想像できなかったから。 どうしようもなく切なくて、ピジョン・ブラッドは答えの分かる質問に『彼』が応える前に、行動していた。 突き刺し、刳り貫いて、引き出す。 どろりと顔を濡らす、不愉快な感覚と香り。 「この眼が無ければ僕を連れ帰る理由が無いと言うなら、僕の眼だけを連れ帰ってください。」 眼を抉り出すということは、以外に簡単なんだな、と。ピジョン・ブラッドは思った。 顔が血で濡れる不快感はどうしようも無かったけれど、不思議と痛みは感じない。 ただ、空洞になった眼窩が、夜明け前の外気に晒されて、冷たく感じた。 ピジョン・ブラッドにとって、この眼が無くなって困ることといえば、『彼』の姿が見えなくなることくらいだ。 『彼』が『ピジョン・ブラッド』と呼んだ最高級のルビーを、彼女は血まみれのまま差し出した。 咄嗟のことに呆然として動かない『彼』に、血塗れの眼球を投げつける。 「もう片方も要りますか?」 初めて見る、驚愕に硬直した『彼』に、ピジョン・ブラッドは残ったほうの眼にも手をかける。 いらないのだ、『紅』は。 ピジョン・ブラッドにとってはは、鎖より枷より、何よりも重いモノから。 「やめろ!」 『彼』の声が響き、ピジョン・ブラッドは自分が底の見えない奈落に身を投じたことを自覚した。 ピジョン・ブラッドの体を支えていたウォルフが、咄嗟に彼女の腕を掴んでそれを止める。 彼女の反応はウォルフの存在に幾分か冷静さを促されたが、それを上回る勢いで高ぶった感情が押し寄せ、ピジョン・ブラッドのそれほど大きな容量を要していない感情の器から、堰を切ったように溢れかえる。 「博士。あぁ、ウォルフガング・エーデルシュタイン博士。僕は『ピジョン・ブラッド』じゃない。貴方が造りだした紅い眼に僕がついてきたんじゃない。貴方が造りだした僕に、紅い眼がついていただけだ。」 貴方は僕を愛してると言うけど、サファイアと逃げ出した僕を、僕の方を追いかけて来てくれたけど、この眼が無くてもそうしてくれましたか、と。 続いたピジョン・ブラッドの慟哭は、空虚な廃墟の夜空に吸い込まれていく。 それは、今までピジョン・ブラッドの中の深い部分で燻り続けていた、心からの叫びだった。 『彼』は自分を見ていない。求めていない。 ソレから目を反らせる為に用意された存在だから。 自分は、『彼』の表層を慰めただけだ。サファイアのように、心の中にまで入れなかった。 『彼』の聖域まで届かなかった。 それを、ピジョン・ブラッドは知っていたから。 だから、どうか、否定して下さい。 他には何も要らないから。 もう貴方のモノでいたいとは言わないから。 だからどうか、否定して。 そう、強く。強く強く願っていたのに。 視線の先の『彼』は、もうピジョン・ブラッドに笑みを向けてはくれなかった。 「君には失望したよ、ピジョン・ブラッド。」 ややあってから、『彼』はあざけるような表情を見せて、穏やかに口を開いた。 「僕が欠陥品を嫌うことを、君は良く知っていたはずだ。それを知っていて、自ら欠陥品になるとはね。答えは君が一番良く知っているだろう。君を連れ帰る理由は、たった今君が壊してしまった。」 落雷を落とされたような衝撃。 本当は、本当に、分かっていた。それでも否定して欲しかった。やっぱり『彼』は、否定してくれなかった。 『彼』にとって大切だったのは、ピジョン・ブラッドではなく、サファイアだった。 「――やっぱり貴方は、最初から宝石の子供達を造りたかったわけじゃなかったんですね。貴方は、自分が失った物を造りたかっただけだったんだ。」 『彼』が求めていたのは。その為にならどんな犠牲だって払えたのは。 宝石ではなく、それを見て喜ぶ、恋人の存在だったから。 『彼』がもっとも嫌うであろう領域に踏み込む。 今なら、『彼』がサファイアの始末をウォルフに依頼したわけも解るような気がした。 『彼』は、自ら殺すことに耐えられなかったのだ。 ラピス・ラズリの手に掛けて、苦しませたかったわけでもない。 自分の物にならないモノなら、いっそ殺して誰のモノにもならない様にした。 サファイアを、愛していたから。 きっとその表現すらも正確ではないのだろうけれど。 それ以上言葉を無くしたピジョン・ブラッドに、ウォルフは目隠しをするようにその顔に布を巻いた。 「止血しておけ。」 ピジョン・ブラッドは、少しだけ口元をしならせる。 このまま『彼』の顔を見ているのは、耐えられないほど辛かったから。 血でも傷でもなくて、それを隠してくれたことに、僅かな安堵を覚えたから。 「残念だよ、ピジョン・ブラッド。」 視覚を遮断された世界に、聴覚だけは過敏な程に『彼』の声を捉える。 目隠しがされているせいで余計に、聞き慣れていた、甘ったるい癖に酷く凍り付いたような声が直接頭に響いた。 「本当に残念だ。ずっと君をこの手に捕らえておきたかったのに。」 僕もずっと貴方に捕らえられていたかったのに、と。 ピジョン・ブラッドは心の中だけで答える。 そうしてくれなかったのは貴方だ、と、続ければ。 どくんと、体の中で音が響いた。 空洞になった眼窩から血が流れているのか、残った方の眼から涙が溢れているのか、もう何も分からなかった。 『彼』続けて何かを言っていたけど、それはもうピジョン・ブラッドに向けられた言葉ではない。 苦しくて苦しくて苦しくて。 だから『彼』の声が再び耳に入った時も、ピジョン・ブラッドは。 「僕は心から君を愛していたんだよ。」 『嘘吐き』 声にならない声で、心からそう応えた。 それが本当のことならば、自分達には総てが遅すぎたのだから。 |
2008/12/08 再UP |